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隋唐の隆盛によって、唐風文化の圧倒的な影響力は、明治末の黒船の襲来による欧米風文化の受容に匹敵していました。あるいは、それ以上の影響力が在ったかも知れません。というのは、平城京・平安京はは隋・唐の都をモデルに作られました。違いは、隋唐の都である長安城には、巨大な城壁に囲まれていましたが、騎馬民族や異民族の都蹂躙の危機感をもたない平城京や平安京では巨大な城壁は必要在りませんでした。また、その中枢部である宮殿・政庁部分も今日の京都御所に見られる造りであり、土塀で囲まれていましたが、盗賊にすれば簡単に侵入できるものでした。

日本書紀 神代〜697年 720年 舎人親王
続日本紀 697年〜791年 797年 菅野真道 他
日本後紀 792年〜833年 840年 藤原冬嗣 藤原緒嗣
続日本後紀 833年〜850年 869年 藤原良房 他
日本文徳天皇実録 850年〜858年 879年 藤原基経 他
日本三代実録 858年〜887年 901年 藤原時平 菅原道真 他

 文化的な浸透は、建物以上でした。平城京の官庁の公用語は、漢語(中国語)であったと言われています。また、平安時代初期の桓武天皇(在位781年〜806年)嵯峨天皇(在位809年〜823年)から9世紀後半にかけての時代は、漢文学の全盛時代であり、六国史とよばれる正史も漢文で書かれました。


 黄巣の乱(875年〜884年)という農民反乱により唐の権威は失墜し、唐は衰退して行きました。そして、唐風文化の源泉であった、遣唐使が廃止(894年)されました。そして、907年には唐は完全に滅び、五代十国時代(907年〜960年)という混乱時代に突入しました。ようやく300年続いた圧倒的な唐の影響下から解放され国風文化の時代を迎えます。
 国風文化の最大の特徴は、カタカナ、ひらがなの使用にあります。これにより、日本人特有の心理や感情の表現が繊細に、微妙なニュアンスまで表現できるようになり日本文学の黄金時代を迎えます。
詩歌 古今和歌集 905年 紀貫之 他撰 1439年新続古今和歌集に至る。勅撰和歌集の初め。「君が代」の原歌も選ばれる。
 和漢朗詠集 1018年 藤原公任 撰 和歌・漢詩選集。妃候補の教育のテキストとして編纂されたのが始まり。「君が代」が掲載される。
物語 竹取物語 940年以前  最古の物語(かな文学)。「かぐや姫の物語」 とも。
伊勢物語 950年前後 現存する最古の歌物語。在原業平(825年〜880年)の物語とされてきた。
源氏物語 1001年(1008年)以降  紫式部 世界最古の長編物語(近代小説に匹敵する心理描写)。日本文学の最高傑作ともされている。現在にも通じる世界的な文学。12カ国語以上に訳されている。
日記  土佐日記 935年以降  紀貫之 最古の日記文学(かな日記)。
御堂関白記 998年〜1021年までの藤原道長の日記が現存する。子孫の近衛家によって伝承されてきた。宮廷の有職故実を子孫に伝えるために丁寧に書かれている。
随筆 枕草子 1000年前後 清少納言 随筆集。現代の日本人の感性にもフィットするセンスの良さが光っている。
軍記物 将門記 940年頃 最古の軍記物。

 万葉集に歌われた「言霊の幸はふ国」の日本人固有の心は、古今和歌集のかな序にあますことなく、表現されています。
 竹取物語は、かぐや姫の物語とも称され、今日までも語り継がれる物語です。

 源氏物語は、世界12カ国語以上に訳されている近代小説にも匹敵する心理描写を伴っていることが特徴であり、現代にも通用する世界最古の長編小説です。
 枕草子は、日本人としての美的感覚やセンスを今につたえる随筆集です。
 これらの代表作だけではなく、和歌集や物語、日記、軍記物など数多く残されていることも、天皇が現在も存在し、摂関家を初め多くの古くから家系が、連綿と伝統を伝えてきた日本ならではの真実ではないでしょうか。

源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』土佐光起(バーク・コレクション)
 国風文化の時代(10世紀〜12世紀)に唐風の衣装を大幅に日本化した女性の十二単衣と男性の正装である文官束帯が正装となり、今日まで正装として伝承されることとなりました。
 また、宇治の平等院に見られるように庭園には池がしつらえられた和風の庭園が造られるようになりました。また、床板の上に畳がひかれるようになったり、屏風が仕切りとしてつかわれるようになりました。公的なスペースでは、中国の聖人君主の絵が好まれましたが、プライベート空間では、日本風の大和絵が屏風に画かれ、好まれるようになりました。これらの総体である寝殿造は、和風建築の源流となりました。
 世界史における奇跡、縄文時代(神代)より続く日本の誇りであるずです。
 戦後(1945年以降)の教育により、その文化的な伝統も跡切れようとしていることが残念でなりません。
 なお、10世紀初め(900年代)にカタカナ、ひらがなの書体が確定することになりました。
 疑問の余地の無い事実として「カタカナ」は、漢字の扁や旁から、「ひらがな」は、万葉仮名の草書体から変化したものとされています。
 しかし、二千数百種あったとされる神代文字の代表である「象形神名」(豊国文字旧字)から「カタカナ」になり、「あひる草文字」の改良されて「ひらがな」になったという説があります。
 伊勢神宮文庫に保存されている奉納染筆の文字や、古い神社の神璽や御札等に記された文字などが残されていることが、その証拠であるとされています。
 神代文字は、明治以降に始まった神武天皇に始まる国家神道にではなく、縄文時代よりの伝統をもつ古神道につながる文字です。明治時代から昭和の初めにかけて、神代文字の存在は、東京大学の学者達によって否定されました。学問的というよりはヒステリックな議論であったように思います。そして今も、学問的な系譜はその流れの中にあります。先入観をとれば、神代文字が存在したとする証拠が確認されるものと確信しています。

 圧倒的な仏教・儒教あるいは唐文化の流入によって漢字使用が流行となり、神代文字は、忘れ去られた。あるいは、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした587年の崇仏派と廃仏派(古神道擁護派)の争いにより、使用が厳禁されたのではないか思われます。大化の改新、壬申の乱における勝者側に、唐の派遣軍がいたかも知れません。
 国風文化(10世紀初めより)の時代になって唐風の圧力がなくなり、空海(774年〜835年)により始まった神代文字の復活運動が成果をあげたのではないかと思います。山根キクによると神代文字を継承していた竹内家の記録(竹内文書)には、空海が入門をゆるされ神代文字の使用を許したとあります。

 平安中期の国風文化の時代は、地方における社会の混乱のなかで、末法思想が真剣に受け入れられ、1052年に末法が来るという説が信じられるようになります。
 仏教では、釈尊没後1000年は、正法の時代。仏の教えと修行と悟りを開くもの三つが揃った時代。
 次の1000年は、像法の時代。仏の教えと修行がある時代。悟るものがいない時代。
 そして1052年からは末法で、仏の教えのみが残り、修行するものも悟りを開くものがいない時代とされていました。
 現世の栄達を求めると共に、極楽浄土へ往生することを望む浄土教が流行します。
 仏教の日本化も行われました。平安仏教である天台宗と真言宗は山岳宗教の要素があり、神道と結びついた修験道が行われるようになりました。
 また、仏教と神道の習合もおこなわれました。神道における天照日大神は、仏教の辺土である日本の民を救うために大日如来が、神に化けたものであるという本地垂迹説があらわれます。鎌倉時代からは、更に神道の復権が進み、様々の仏の本体・本地は、神々であるという反本地垂迹説もあらわれます。

参考図書

○「古今和歌集」奥村恆哉 校注(「新潮日本古典集成」所収 昭和53年)
 「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれと思はせ。男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。
 この歌、天地ひらけ初まりける時より出できにけり。」(11頁)

○「現代までつづく日本人の源流」渡部昇一著(「日本の歴史」第1巻古代編 ワック(株)2011年)
○「天皇と摂政・関白」佐々木恵介著(「天皇の歴史」03巻 講談社 2011年)
○「奇跡の日本史 『花づな列島』の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研究所 2010年)
○「道長と宮廷社会」大津透著(「日本の歴史06」所収 講談社 2001年) 
  
平成25年12月30日作成  第092話