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  律令体制の確立に貢献した藤原不比等(659年〜720年)の四人の子供が揃って公卿となり、皇族の左大臣長屋王を無実の罪におとした長屋王の変(729年)をもって、皇族による皇親政治はおわりをつげ、貴族の世をむかえることとなりました。四兄弟の子孫は、南家、北家、式家、京家とよばれるようになります。
 奈良時代は、藤原氏四家のうちの南家が最初指導権をにぎりましたが、つぎに式家の時代となり、810年の薬子の変によって式家は失脚し、北家が台頭してきました。
 藤原北家の藤原冬嗣(775年〜826年)は、天皇の私的な執事ともいえる蔵人頭になり左大臣まで昇り権力をふるいました。その子良房は、858年臣下ではじめて、摂政の任を果たしました。良房の養子基経が、884年初めて実質の関白の実務をおこないました。
 摂政は、天皇が幼少であるときにその成務を代行し、関白は天皇の成人後に後見役として政治を補佐する地位です。天皇の権限を奪っての摂政関白であると従来されてきましたが、天皇の外戚として天皇の下での摂政関白であり、天皇の主権者としての権限も多く残されていたことが今日明らかになっています。
 外戚とは、天皇の母方の一族をさします。当時、貴族社会では、通婚の形をとり、子供は母方の実家で育てられるのが一般的でした。当然のことながら、天皇が幼少であれば、母方の父は絶大な影響力をもちます。そのような中で、摂政が置かれ、成人すると関白として外戚は、絶大な権力をふるいました。藤原家は、10世紀末の藤原道長(966年〜1027年)とその子藤原頼通(992年〜1074年)は、995年〜1068年にいたる間実質、摂政及び関白の地位にあり権力を独占しました。外戚になるためには、娘が天皇の寵愛をうける必要があります。美貌と共に豊かな教養が必要とされました。国風文化とよばれる宮廷文学の全盛時代を迎えることとなりました。
 この間、古代以来、天皇を支えてきた豪族が次々と藤原氏により排斥され、上級貴族としては姿を消していきました。842年承和の変で、伴(大伴)健岑・橘逸勢が失脚させられました。橘氏は、奈良時代の皇族出身の橘諸兄以来の名門で、源平藤橘と言われる貴種の一角を占めていました。ちなみに、源及び平の姓をもらった源氏も平氏も天皇の子孫であり、桓武天皇の子孫である桓武平氏、清和天皇の子孫である清和源氏が有名ですが、嵯峨源氏、村上源氏などその他の天皇の子孫である源氏もありました。
 868年応天門の変で、大伴氏の中でその才覚で異例の出世を遂げていた伴善男が、応天門の放火事件の犯人として失脚させられました。大伴氏は神武天皇以来、軍事貴族としての誇りを誇示していた貴族でした。
 古墳造りに携わっていた土師氏の子孫である菅原道真は、その文才をもって右大臣になったものの、藤原氏によって901年太宰府に左遷されました。菅原道真は、のちに怨霊となって藤原氏を苦しめました。怨霊封じのために天満宮が造られ、今日では学問の神様になっています。
 10世紀前半には、醍醐天皇(位897年〜930年)・村上天皇(位946年〜967年)が親政を行い後世から「延喜・天暦の治」と讃えられる時代がありました。嵯峨天皇の子である源高明が969年安和の変で失脚すると、藤原北家の地位は、不動のものとなりました。
 江戸時代の末にいたるまで、公卿つまり大臣クラスの貴族は、ほとんど全て、この藤原北家の子孫が独占することとなりました。藤原北家は、天皇になろうとはせず、天皇の外戚の地位に甘んじることにより、天皇の下の、摂政または関白及び公卿の地位を独占しました。天皇家の下にあって、天皇家の存続と共に永続性のある地位を手に入れました。
 道長とその子の頼通が摂政と関白をほぼ80年間独占することにより、他の貴族達もそれぞての官職を世襲するようになりました。家柄によって朝廷での役割が固定してゆきました。雅楽を司る東儀家などのように今日まで受け継がれる役割もあります。

「上(北宋の太宗[在位976年〜997年])は、その国、王が一姓で継を伝え、臣下もみな官を世々にしていることを聞き、よって歎息して宰相にいうには『…、すなわち世祚(せいそ・万世一系の天皇の皇統連綿をさす)は、遐久(かきゅう・はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに古の道である。…』」(宋史日本伝による[「訳註中国正史日本伝」石原道博著])  
中国5000年の歴史といいますが、日本のように国家としての継続性はありません。618年に建国した唐の律令体制を理想として国家建設を進めてきた日本ですが、その唐は907年にほろびました。
 唐を建国した李氏は、遊牧騎馬民族の鮮卑系であり、青い目をしていたとすら言われていて漢民族ではありません。宋(北宋)は、久々の漢民族の国家でした。その後も、モンゴル民族の元、女真族の清など、支配民族が変遷しています。民族が変わるときには徹底的な殺戮が行われ伝統文化が破壊されます。
 日本は、島国という立地で天然の要塞に守られ、万世一系の天皇という権威がいつの時代にも存在しました。天皇という中心を失わなかったために、大殺戮の時代を経験せず、亡国に至らずに、神代より国家を営んできたことは、なんと幸福なことであるかを日本人は気づいていないように思えます。徹底的な殺戮の経験のない日本の継続性は特筆されるべきであります。

北宋の太宗が言うように、神代からつづく天皇家が存在することは、その伝統文化の継続性と国家の安定を保証しています。日本民族として誇りに思ってよいことであるはずです。しかし、唯物の階級闘争史観に洗脳されてしまった現在の日本では、このもっとも誇るべき日本の特徴をはずべきものとして葬り去ろうとする動きが強いのが残念でなりません。天皇の存在が、古代専制君主制の遺物であり、遅れた日本の象徴であると考える人が多いのです。特に、インテリ層及びマスコミ関係者に多いのです。表立っては天皇の廃止を声高に叫びません。しかし、日本史の教科書から天皇の事績やお名前すらどんどん消えていっている事実があります。
 天皇なくしては、日本のアイデンティティも日本の良いところも消えてしまします。摂関政治の時代を担った藤原北家も江戸時代末まで長く政治の中枢を担ってきました。その後も70年前の敗戦まで華族として権威の中枢にいました。天皇のもとでの摂関政治の時代に育まれた宮中の儀式からひな祭り、端午の節句などの行事や、新年宴会、お歳暮文化などもはじまり、現在の日本に定着しています。この驚くべき継続性こそ日本であり、日本の良き伝統です。

  969年の安和の変から1086年に白河上皇(天皇を退かれた方を上皇といいます)が院政を行うまでの約100年間を摂関政治の時代とよんでいます。

参考図書

○ひな人形 
我が家の雛人形―日本文化の永続性の象徴の一つです。  源氏物語などにもある「ひいな」遊び(幼女のままごとあそび)と災厄を水にながす宮中行事の「流し雛」の行事が平安時代に行われていました。その伝統が引き継がれて行き、平和を謳歌した江戸時代初めに、五節句が定められました。その一つとして女の子の節句として3月3日が祝われるようになりました。飾り方も現在のようになりました。写真は、日本の伝統的飾り方で、向かって右側が上座になります。内裏雛(親王雛)の向かって右が親王雛(天皇)です。昭和天皇の即位式の時、国際儀礼に基づいて向かって左が親王雛になりました。なお、紫宸殿(天皇の玉座)の前庭の「左近の橘」「右近の桜」に因んで本来の飾り方にしてあります。  親王雛の隣の妃(皇后)の衣装は、平安時代の十二単。1000年の伝統をもつ衣装です。  

○「現代までつづく日本人の源流」渡部昇一著(渡部昇一「日本の歴史」第1巻古代篇 ワック株式会社 2011年)

「藤原氏は天児屋命を先祖とする中臣家の子孫で、その系図が神代にさかのぼる名家である。しかも「大化の改新」に大功のあった中臣鎌足その二十一代目の子孫であった。そして、…、鎌足の息子の藤原不比等は、初めて天皇の祖父となった人物であり、娘によって、つまり結婚政策によって宮中で勢力を得、藤原時代の基礎を築いた。不比等の後妻となった橘三千代は女性版キングメーカーであったと言ってもよい。しかし、藤原氏は重要なところで節度を守っていた。つまり、自分が皇位につこうという野心がまったくなかったのである。
 だから、道鏡が皇位を狙ったことは藤原氏はあきれ果てたのではないだろうか。道鏡を寵愛した孝謙天皇(称徳天皇)は女帝であるから、当然、生涯独身で、それまでの権力闘争のせいで適当な跡継ぎもなかったため、天武天皇系の皇統は途絶えた。それで天智天皇の孫である白壁が六十二歳で皇位につき、光仁天皇となる。そして、その子の桓武天皇のとき、長岡京、ついで平安京に遷都があり(延暦十三年=七九四)、ようやく世の中は落ち着いた。

 平和が訪れると。再び藤原氏の時代になる。ハプスブルク家同様、戦争などすることなく、結婚政策によって権力を握るのである。先祖の不比等にならって、皇位に野心を抱かず、その政治的野心は…武力によってではなく、娘の質によることになる。もちろん女帝こそ出さないが、皇后・中宮には藤原氏ならざる女性を見つけるのがむずかしいほどであった。それは昭和の御代まで続き、美智子妃殿下が皇后になられるまで、天皇のお手のつく女性は、皇后をはじめすべて藤原氏につながると言われていた。平安朝において、不比等に劣らぬ濃密な血縁関係を皇室に築き、藤原氏の最盛期をつくったのが、藤原道長(九六六から一〇二七)であった。」(173頁〜175頁)

○「天皇と摂政・関白」佐々木恵介著(「天皇の歴史」03巻 講談社 2011年)
○「奇跡の日本史 『花づな列島』の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研究所 2010年)
○「訳註中国正史日本伝」石原道博著(国書刊行会 昭和50年)   ○

平成25年11月23日作成  第091話