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  桓武天皇(在位781年〜806年)の晩年の805年「天下の民の苦しむところは軍事と造作である」という参議の藤原緒嗣の議論を入れて40年近くに及ぶ東北地方征服戦争(対蝦夷戦)と平安京の造作を停止した。
 保守的な学会からは認められていないが、出雲の在野の考古学者恩田清は、250万年前から100万年前にさかのぼる旧石器を出雲の地で発掘した。古くから原日本人が日本列島に住していたことは確実である。
笹山晴生による図を改編。蝦夷(えみし)は、原日本人であり、弥生人の支配に屈しなかった縄文人の末裔であると考えられている。
 東北地方の蝦夷(えみし)は、まだ桓武天皇の時代には、日本国の支配下にはなかった。古代の蝦夷(えみし)は、中世の蝦夷(えぞ)とは違うとされてきた。明らかに蝦夷(えぞ)は、アイヌ民族のことである。しかし、古代の蝦夷(えみし)も中世以降の蝦夷(えぞ)も、原日本人ではないかという説が有力である。 現在アイヌ民族は2万4千人にまで減少してしまった。白人系であるという誤解もあったが、原日本人である。日本の先住民であると国際的にも認められている。
 大和政権支配下にある古代においては、大隅・薩摩の国(現在の鹿児島県)の隼人も蝦夷とならんで、日本国の外の民とされていた。
 日本の中央部に稲作りを生業とする中国系の人々が侵入し稲作を受け入れた原日本人である縄文人と混血して弥生人が大和政権の下に、統一国家を形成していった。隼人は、8世紀末には稲作の民として同化してしまった。
 桓武天皇の晩年に日本国に組み入れることに失敗した東北地方の北部は、源頼朝の奥州藤原氏討伐の1189年ようやく日本国の領域と成った。
 南の沖縄は、江戸時代初めに薩摩藩の属国となり、明治に入り日本国の一部となった。アイヌ民族の居住として最後まで残された蝦夷地は、北海道として明治に入り日本国に組み入れられた。
 原日本人が暮らしていた北海道から沖縄にいたる日本列島には、原日本人とでもいうべき人々が住んでいた。証拠の一つとして、アイヌ民族の犬と沖縄(琉球)の犬は、おなじであるという。 原日本人の文化が、現在の日本の基層をなす縄文人の文化ということになる。そしてその縄文文化の領域に、現在の日本国の領域が重なり現在意識される日本国が確立するのは明治時代に入ってからである。
 その後、サハリン島南半分や朝鮮半島、台湾島を日本国の領域に組み入れたが、先の戦争の敗北(1945年)によって、サハリン島南半分はロシア領になり、朝鮮半島と台湾島は独立国家となった。
 
 縄文時代にも、稲作が行われていたようであるが、圧倒的な技術力をもって、中国より稲作民族が進入し、縄文時代の原日本人を征服し、混血し弥生人を形成していった。縄文時代以前にも、当然、北方や南方から日本列島にやってきた民族もいたことであろう。その後も、さまざまな民族が住み着き、現在の日本を形成してきた。
稲作文化の普及は、神武天皇の東征の時期と重なる。
 「日本書紀」の神武天皇前史となる神代下に、「斎庭の稲穂の神勅」がある。

「吾が高天原(たかあまはら)にきこしめす斎庭の稲穂を以て、また吾が児にまかせまつるべし」

 神武天皇は、稲作技術をもたらすことにより日本の統一を進めたことが覗われる。前660年に神武天皇即位であるとされているが、稲作の普及をもって弥生時代とするならば、前600年頃にさかのぼるとされており、符合する。
 中国においては周(前11世紀〜前256年)が、西方の遊牧民族に首都鎬京を奪われ、前770年東遷し、洛邑に都をおいたが、諸侯同士の争乱が激しく、斉、宋、晋、秦、楚、呉、越などの国が覇権を争う混乱時代を迎える。さらに、下克上が進行し、前403年から秦の始皇帝により中国の統一された前221年までは、戦国の七雄が活躍する戦国時代を迎える。この間、多くの敗北者が、海を越え日本に新天地をもたらした。「晋書」倭人伝によると天皇は、長江下流域に呉を建国した太伯(前12世紀又は前11世紀)の末裔の子孫であると自ら称したと云う箇所がある。神武天皇、盤古系(中国系)説である。稲作文明の栄えた長江流域との関連性があって興味深い。

 220年の後漢の滅亡から589年の隋による中国の統一までの魏晋南北朝時代の動乱期にも中国よりの渡来人が多数あったはずである。その後の唐(618年〜907年)による日本支配があったかもしれない。宇野正美によると今日では中国系の日本人は50%を占めている。
 次に多いのが朝鮮系の日本人である。25%は朝鮮系であるという。『日本書紀』を読むと高句麗[高麗](前37年〜668年)・百済(4世紀〜660年)・新羅(4世紀〜935年)・加羅諸国(4世紀〜562年)などの諸国と日本との関係が深いことがわかる。特に百済と日本の天皇家は親戚関係にあったのではないかと推測される。7世紀後半に百済・高句麗が相次いで新羅と唐の連合軍に征服される間、多くの貴族が日本に渡来したことが記録に残されている。
 残りの25%の中に、原日本人やはるばるイスラエル・ユダヤから渡来したイスラエル・ユダヤ系の日本人がいる。

 彼らイスラエル・ユダヤ民族は、数次にわたって日本に渡来した。
 前722年のイスラエル王国の滅亡後アッシリアに捕らえられたイスラエル王国の10支族はシルクロードを東遷し、日本に到着した。さらには、前586年ユダ王国の滅亡後にもユダヤ人はシルクロードを東遷し、日本に住み着いた。ローマ帝国に迫害されたキリスト教徒ユダヤ人たちも日本に到着することとなり、今や世界最大の古代ユダヤ・イスラエル民族の居住地が日本であるというのである。
 呉の太伯の子孫であるという晋書倭人伝の記述とは矛盾するが、古代ユダヤ民族は、ダビデの子孫を奉戴して日本に王国を四国に築いたという。この王国を併合した中国系の大和王権は、この王国のダビデの子孫の王を大和国の天皇として奉戴したという。天皇の側近として、忌部氏や藤原氏のように貴族化したユダヤ・イスラエル民族の末裔がいる一方で、仏教を受け入れることを拒否して、被差別民とされたユダヤ・イスラエル民族の末裔もいるという。二極分解である。
 彼らユダヤ・イスラエル民族は、ヤハウェの神に牛を犠牲に捧げて罪穢れをあがなうという習慣をもっていた。そして、神に捧げた牛を食べるのである。仏教が国教となった奈良時代の中期、東大寺の大仏建立の頃から、殺生を嫌う仏教の教えから、牛を食べるユダヤ・イスラエル民族は、穢れ多い民として差別され隔離されるようになったという。穢多、鉢屋とかよばれた被差別民の淵源であるという説がある。
 ユダヤ・イスラエル民族の秦氏が総力をあげて建設した、平安京(エルサレム)から彼らを追放した、韓国系の母を持つ桓武天皇は、この差別を助長し、古代ユダヤ・イスラエル民族を迫害した可能性も指摘されている。
 古代ユダヤ・イスラエル民族は、被差別民族として、奴隷のような地位に置かれるが(聖書「申命記」28章29節から32節、41節から44節)、やがて、民族の尊厳を復活し神から選ばれた民としてこの世の終わりには神から祝福され世にでるという(聖書「エゼキエル書」37章「枯骨の復活」)。そうであるならば、古代のイスラエル・ユダヤで神から祝福され、仏教の穢れ思想故に、穢多とよばれた被差別民は、差別故に隔離され血統を守られた高貴な選民ということになる。これらの選民がメシア(天皇)の下に、終末の世に復活し、神の王国を築くという。この日本でも、古代ユダヤ・イスラエル民族の復活の兆候が見られるという。維新の会を率いる橋下徹の台頭である。第二の明治維新が始まるが如き勢いを得ている。正にエゼキエル書37章にある「枯骨の復活」である。

参考図書

○「『日本』とは何か」日本の歴史00 網野善彦著(講談社 2000年)
○「律令国家の転換と『日本』」日本の歴史05 坂上康俊著(講談社 2001年)
○「古代ユダヤは日本で復活する」宇野正美著(日本文芸社 平成6年)
○「革命児、橋下徹大阪市長とは何か」宇野正美著(「エノク」NO.346 2012年1月号) 
  
平成24年01月03日作成 第076話