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高校生のためのおもしろ歴史教室>日本史の部屋

17.奈良の大仏と鎮護国家

 日本書紀によると552年に百済の聖明王より欽明天皇に仏教が伝えられた。587年日本古来の神道国家の伝統を守ろうとした物部氏を倒して崇仏派の蘇我氏が勝利した 。このことをきっかけに仏教国家への障害はなくなることになる。
 6世紀末より飛鳥地方に、有力貴族や天皇家が競って寺院を建てるようになった。そして、仏教を保護して天皇家と共に権力を独占していた蘇我氏が、645年の大化の改新により滅ぶと、仏教保護の主体は天皇家になった。
 改新政府は、儒教思想を重んじる政策を取ると共に、仏教思想を国家イデオロギーの基本にすえた。孝徳天皇(645年〜654年在位)が建設した難波長柄豊碕宮で、歴史上初めて、651年に仏教法会が行われた。仏教が、公式に伝えられてちょうど99年目のことであった。
 藤原京は、672年の壬申の乱で勝利した天武天皇(673年〜686年在位)が、造営を始めた。造営は、皇后であった持統天皇(690年〜697年在位)の時代である694年に完成した。この日本最初の都城である藤原京も仏都としての性格を有していた。「扶桑略記」によれば、692年の全国の寺院数は545あり、そのうち30以上の大寺院が、飛鳥・藤原京にひしめいていた。
 710年に都となった平城京には、有力氏族の氏寺を飛鳥・藤原京から移すためのスペースである外京まで設けられた。
 大化の改新の功績者である藤原鎌足の子である藤原不比等は、持統天皇を支えた。天武直系といえる持統の子孫が天皇を継承することを支え、高位高官を独占する基礎を築いた。以後明治維新直前までの藤原氏は議政官としてあるい公家として権力掌握した。
 奈良時代まで、皇后の地位は、皇族出身でないとなれないのが慣例となっていた。天皇の死後、天皇になることも多かったからである。
 729年皇族の左大臣として政府首班の地位にあった長屋王をえん罪で滅ぼし、反対者を取り除いた上で、不比等の娘を聖武天皇〈724年〜749年在位)の皇后とした。光明皇后(701年〜760年)である。
 長屋王は、太政大臣になった高市皇子の子である。高市皇子は、壬申の乱では父天武天皇を助けた。長屋王は、吉備内親王との間に3人の王があり、その子は藤原京子を母とする聖武天皇よりも、高貴な血を受け継いでいた。聖武天皇とその子阿部内親王の皇位を危うくする危惧があったので藤原氏が取り除いたものと考えられる。
 
 左:物部尾輿(6世紀半)「おおくにぬしのおほかみ」「すせりひめのみこと」 (アヒル文字・アヒル草文字)右:藤原不比等「つくよみおほかみ」(アヒル草文字)伊勢神宮文庫蔵 神代文字で書かれた奉納文
 長屋王の死後、天皇及び皇族・皇后による皇親政治から藤原氏を中心とする貴族政治の時代に大きく変化します。

 長屋王没後権力を握っていた不比等の子どもの4兄弟が、737年天然痘に罹患してあっけなく世を去った。聖武天皇や光明皇后は、長屋王のたたりと考え、たたりを鎮める役割を仏教に期待した。
 藤原4兄弟が死亡した、737年の天然痘の流行はすさまじかった。ウェイン・ファリアスの研究によれば、737年の全国平均の死亡率は、25%〜35%であったと推算している。当時の日本の人口は約450万人と推定されている。その中で100万人から150万人もの死者を出したことになる。中世ヨーロッパのペストの流行とほぼ同じレベルであったとのことである。統治機構も壊滅した。
 さらにこの前後に天災が続いた。734年夏近畿地方に大地震が発生した。735年は凶作であり、天然痘が猛威をふるった。そして、737年の天然痘の大流行であった。
 聖武天皇は、疫病を除き、長屋王のたたりを鎮めるため、仏教の鎮護国家思想を全面に押しだした。736年光明皇后の発願による一切経(仏教の経典を網羅したもの)の書写が始まり、今も正倉院に伝わる奈良時代仏典の根本セットとなった。この時の願文で光明皇后は、仏教を通じて災いのない世界を作り上げたいと宣言している。この流れの中で741年に各国に国分寺・国分尼寺を建てる詔勅をだした。これも深く仏教に帰依した光明皇后の発案であったとされる。
 鎮護国家とは、仏が、民衆の病気などを救済すると共、国家の危機を救い安全を守るという思想である。「金光明最勝王経」は、四天王を初めとする諸天善神が人民と国土を守るという教典であり、この教典を国分寺に収め読経して天下安寧を祈った。
 740年、聖武天皇は難波京の行き帰りに河内の知識寺の毘盧遮那仏(=盧舎那仏・大日如来)が、地元の豪族や民衆の寄進により建立されたことに感銘をうけ、多くの人の寄進により鎮護国家のための巨大な毘盧遮那仏を建立することを決意した。
 こうして、743年大仏建立の詔が出された。
 国家の富の全力をかたむけ、さらに知識(=寄進)により、平城京の外京の外れに、頭部の幅3.2メートル、高さ18メートルにも及ぶ巨大な毘盧遮那仏(大仏)を造顕し、これを収める東大寺をつくった。
 古来より神に仕え、神の言葉を伝えて政を行っていたのが天皇であった。仏教に帰依するあまり、この立場をすて聖武天皇は、出家して太上天皇として沙弥勝満として毘盧遮那仏に仕える姿勢を示した。
 さらに、天皇家の帰依が厚かった宇佐八幡宮の八幡神が、毘盧遮那仏の建立をたすけるために平城京に赴き鎮座するというパフォーマンスまで行われた。仏に神が導かれる、あるいは仏を神が守るという神仏混合が行われるようになった。この神仏習合の体制は、神武天皇の創業をモデルとして行われた明治維新の廃仏毀釈までつづいた。
 聖武天皇は、国家の富だけで造顕できると宣言したが、本当は、諸豪族、民衆の寄進を必要としていた。この寄進を進め資金集めに奔走したのが、行基であった。
 1709年に再建された東大寺本堂(大仏は1692年に再建されている)。柱のスパンは7間であるが、創建当時の本堂は12間あった。横に1.7倍広かったことになる。高さについてはもう少し低かったようである。

 行基は、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)出身の僧侶で、近畿地方一円で、地元の豪族をさそい「知識」を行い、橋を造り、病人を収容し、灌漑池を造っていっていた。知識とは、因果応報の信じ、人助けや橋を架けるなどをおこない、善徳を積む活動をすること又は、善徳を積む人を指す言葉である。元々飛鳥寺の僧侶であった人物で、誤解されているように政権に敵対していた訳ではなかった。大仏の造立は、この行基の協力によるところが多い。聖武天皇は行基の活躍に対して仏教の最高位である大僧正の地位を与えた。行基は、749年81歳で大仏の完成を見ずに亡くなった。
聖武太上天皇の健康不安により、完成半ばの752年4月9日にインドより来日した菩提僊那を導師として毘盧遮那仏(大仏)の開眼供養が行われた。日本書紀による仏教公伝のちょうど200年目の盛事であった。
 その後、大仏は1180年10月28日平重衡による焼き討ち、1567年10月10日の松永久秀による焼き討ちにより消失するが、行基の活躍にならった寄進により、1185年及び1692年に消失した部分を補修するという方法により再建された。
 平成の現在も、聖武天皇の鎮護国家の祈りそのままに、東大寺では法会がつづけられている。756年聖武太上天皇の死の直後、光明皇后によって、聖武遺愛の品々が東大寺に献納され、正倉院に収められた。タイムカプセルとして、天武天皇から聖武天皇・光明皇后遺愛のペルシア、中国、インド、日本の最高級品が今日まで、丁寧に保管された状態でのこされている。東大寺は焼けても、正倉院は焼けなかったのである。このような奇跡がほかの国にあるであろうか。文化や国家の継続性こそ、日本の世界にない特色であり、日本の奇跡である。
 752年の開眼供養の時に使われた筆は、1185年の開眼供養の筆として使われ、今も大切に保管されている。また、開眼供養につかわた筆につながれた絹の紐も今日伝わっている。この紐は、聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇など参列者一同が握って功徳にあずかったものである。また、参列した1万名の僧侶の名簿も残されているという。  

参考図書

○「続日本紀(中)」全現代語訳 宇治谷 孟(講談社学術文庫 1992年)「盧舎那仏造立の詔」

「天平十五年(七四三)
冬十月十五日 天皇は次のように詔された。
 朕(チン=天皇の自称)は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位をうけてつぎ、その志は広く人民を救うことにあり、努めて人々をいつくしんできた。国土の果てまで、すでに思いやりとなさけ深い恩恵をうけているけれども、天下のもの一切がすべて仏の法恩に浴しているとはいえない。そこで本当に三宝(仏法僧)の威光と霊力に頼って、天地共に安泰になり、よろず代までの幸せを願う事業を行なって、生きし生けるもの悉く栄えんことを望むものである。
 ここに天平十五年、天を十二年で一周する木星が癸未に宿る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧遮那仏の金銅像一体をお造りすることとする。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏像を構築し、広く仏法を全宇宙にひろめ、これを朕の智識(仏に協力する者)としよう。そして最後には朕も衆生も皆同じように仏の功徳を蒙り、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。
 天下の富を所有する者は朕である。天下の権勢を所有する者も朕である。この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことは成りやすいが、その願いを成就することは難しい。ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、却って罪におちいることを恐れる。したがってこの事業に参加する者は心からなる至誠をもって、それあおれが大きな福を招くように、毎日三度盧舎那仏を拝し、自らがその思いをもって、それぞれ盧舎那仏造営に従うようにせよ。もしさらに一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造物の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許そう。国・郡などの役人はこの造物のために、人民のくらしを侵しみだしたり、無理に物質を取り立てたりすることがあってはならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねく、この詔を布告して、朕の意向を知らしめよ(これを「盧舎那仏造立の詔」と呼ぶ。)」p22〜p23

○「聖武天皇と仏都平城京」天皇の歴史02 吉川真司著(講談社 2011年)
○「平城京と木簡の世紀」日本の歴史04 渡辺晃宏著 (講談社 2001年)
○「続日本紀(下)」全現代語訳 宇治谷 孟著(講談社学術文庫 1995年)
○「ついに現れた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字」丹代貞太郎 小島末喜著(三信孔版 昭和52年) 限定出版
  
平成23年02月06日作成  第067話