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 589年の隋による統一により中国の覇権主義にさらされた日本(倭国)は、593年摂政となった聖徳太子による国政改革により中国に対抗する中央主権国家への道を歩み始めた。
 645年の「大化の改新」による蘇我の本宗家との権力闘争に勝利した中大兄皇子(661年称制・668年〜671年天智天皇)・藤原鎌足は、隋の国家体制を選択し律令国家建設を進めた。朝鮮半島における親日国家百済が660年に滅亡し、再建をはかって朝鮮半島に遠征するも663年白村江の戦いに敗北した日本(倭国)は、国家存亡の危機を迎えることとなる。
 このような危機の中、672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇 在位673年〜686年) とそれを継承した持統天皇(称制686年 在位690〜697年)は、天智天皇の始めた律令国家建設を急いだ。

660年 同盟国の百済の滅亡
663年 白村江の戦い
667年 近江大津宮に遷都
671年 近江令
672年 壬申の乱・飛鳥浄御原宮に遷都
681年 飛鳥浄御原令・史書の編纂始まる
683年 国を設置し始める(68カ国の始め)
694年 藤原京遷都
701年 大宝律令
702年 遣隋使(粟田真人・山上憶良)

 1871年に廃藩置県によって廃止された行政単位である国の制度は、683年頃より整備され始める。国家としてのアイデンティティを確立するために国史の整備が681年より始まり720年「日本書紀」として結実する。また、古代中国の理想国家のであった「周」の理想的な制度について周公旦が書き表したとされる「周礼」に基づく都城である藤原京も694年に完成した。

 大宝元年(701年)正月一日、文武天皇(在位697〜707年) は、藤原京(皇居・官庁を含む都市)の中央に位置する藤原宮(皇居、政庁及び官庁)の大極殿に出御して、元日朝賀の儀式を行った。このとき日像・月像の幡(旗)も掲げられた。
 この日の儀式の偉容を評して「続日本紀」(日本書紀につづく日本の正式な国史)は、「文物の儀、ここに備われり」としるしている。701年のこの年、中国にならった律令国家の根本法典である大宝律令が完成したのである。

律令国家としての文物の整備を中国に誇るために、あるいは報告するために702年遣隋使が派遣された。32年ぶりの遣唐使であった。
 この時、天武天皇の時代に定められた新しい国号「日本」が初めて唐(正確には、則天武后により「周」と称せられていた)に紹介され、唐に用いることを認めさせた。

 702年の遣隋使の一員であった山上憶良は、

 「いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」
 (さあ皆の者、早く日本の国に帰ろう。大伴の御津(難波の港)の浜松が待ちわびているだろう)

と詠んでいる。当時から「日本」は、「にっぽん」とよむのが正しいようである。

 なお、「天皇」の称号は、天武天皇の時代には確実に使用されていた。天智天皇または、推古天皇の時代にさかのぼるという説が有力である。いずれの説も漢字の「天皇」の称号がさだめられた時期についてであり、和名の「スメラミコト」は、もっと古い起源をもつ称号であり、「天皇」「大王」も「スメラミコト」と訓読みされていたらしい。

 「文物の儀、ここに備われり」と誇りをもっていった唐で、藤原京が唐の長安の都と決定的に違うことを発見して愕然としたらしい。「周礼」では、京の中央にあるべき宮が、長安城では、「君子南面す(王は南をむいて臣下に謁見する)」のように京の北の端中央にあったのである。帰国後、慌てて新しいプランに基づく都が作られる。これが710年に完成した平城京であった。
 平城京の人口は、10万人から4万人。長安城は5メートルの高さに及ぶ城壁でかこまれていた。平城京は、世界で初めての城壁なき都城。日本が平和国家であったことがわかる。
「平城京の本体部分は、・・・南北が約四・八キロ、東西が約四・三キロある。・・・羅城門から北方に目をやると、まっすぐに伸びる朱雀大路の彼方に、平城宮の巨大建築群がのぞまれたはずである。王宮である平城宮は、平城京本体部分の北端中央に位置し、その正門が朱雀紋であった。朱雀門と羅城門を結ぶ朱雀大路の道幅は約七五メートル。・・・また、平城宮の南側を東西に走る道路が二条大路であるが、その道幅は約三七メートルで、一般の大路より広く造られていた。朱雀大路と二条大路は、王権の権威を示す南北・東西のメインストリートであったため、新都建設にあたって特に意が払われたのである。その交差点となる朱雀門前は、あたかも大きな広場のようになっており、国家的儀礼に用いられることもあった。」(「天皇の歴史02巻 聖武天皇と仏都平城京」吉川真司著 講談社 2011年) 66p〜68p 
 1854年のペリーの来航に始まる国家存亡の危機に対しては、日本は明治維新をもって対抗した。平城京遷都は、この明治維新に匹敵する危機対応であったといえるのではないか。

 圧倒的な唐の文化的、政治的圧力に対して、唐の国家体制、文物を導入して応じて

 「あおによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり」

と万葉人が詠んだ繁栄を築くことができた。
 漢文が公用語とされたが、同時に万葉がなを発明、採用して、「万葉集」を編集して日本古来の文化も残すことに尽力し成功したのも特質すべきことであろう。

 同様にして、西洋の国家体制、文物を導入してアメリカやヨーロッパの侵略を食い止め、国家として繁栄を築くことができたのが 明治維新である。はじめは和魂洋才で望んだのであるが、日本の良さをわすれ、西欧の物質主義にどっぷりつかってしまったことから今日の日本の危機をまねいてしまった。
 科学文明や武力の圧倒的な強さだけでなく、西欧文明の精神も理想化することで、戦国時代や江戸時代末期に来た西洋人のみた日本人の勤勉さ、誇り、謙虚さ、心の豊かさをすべて失ってしまった。奈良時代の中国化の中で、中国化以前の「清明正直」の生き方や和歌に象徴される古代歌謡やその精神をのこした在り方を今こそ学ぶときではないかと思っている。 

参考図書

○「古代天皇制を考える」日本の歴史08 大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島享・米谷匡史著(講談社 2001年)

 「文武即位宣命(697年)では、「天皇」を神格化する「現御神(あきつかみ)と大八嶋国知らしめす天皇」という表現が登場する。この時期には、すでに浄御原令(689年)が制定されており、「天皇」という君主号が定められていたと考えられている。
 そして、「日本」という国号と「天皇」という君主号が、あわせて成文法において確立したのは、大宝律令(701年)であった。その公式令詔書式では、「御宇日本天皇」という表現が見られる(養老律令では「明神御宇日本天皇」)。ここには、「御宇」、すなわち「天下」の統治者としての「日本天皇」が成立している。」(p308)

○「聖武天皇と仏都平城京」天皇の歴史02 吉川真司著(講談社 2011年)
○「平城京と木簡の世紀」日本の歴史04 渡辺晃宏著 (講談社 2001年)
○「奇跡の日本史 『花づな列島』の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研究所 2010年)

○平城京遷都1300年祭(2010年9月19日撮影) 写真をクリックすると拡大します。
朱雀門(平城宮の入口) 大極殿から朱雀門を望む欄干の五色の宝珠 大極殿(天皇の儀式に臨む玉座がある) 
     
大極殿鴟尾と鴟尾のヒマワリ紋(ヒマワリはユダヤの紋)   軒瓦のヒマワリ紋
 大極殿より朝廷(儀式の場)を望む  朝廷より大極殿を望む  遣唐使船
  
平成23年01月15日作成  第066話