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 蘇我馬子による崇峻天皇暗殺事件をへて、592年用明天皇の后であった、額田部皇女が推古天皇として即位する。飛鳥時代(592年〜710年)の始まりである。翌593年厩戸皇子を皇太子とし、摂政として政治に関与させる。聖徳太子の誕生である。推古天皇の下、蘇我馬子大臣と聖徳太子とで、豪族連合政権であった大和政権を中央集権的な官僚を持つ天皇主権国家へ脱皮する改革を進めてゆくこととなる。この路線は、100年後の701年の大宝律令の制定となって結実する。まさに国家100年の計を立てたのである。

 聖徳太子は、蘇我系王族として、当時の最高のセレブとしての扱いと教育をうけている。百済僧の恵聡(えそう)高句麗僧の恵慈や覚煤iかくか)を師として仏教や儒教、道教に深い関心と造詣を持ようになる。聖徳太子は、596年恵慈とともに、道後温泉に遊んだとき、有名に湯の岡碑文を残している。

「日月は上に照りて私せず、神の井は下に出て給へずといふこと無し。」
 月日は身分の差別なく光を恵む。温泉(神の井)も、身分に関係なく平等に恩沢を与えている。このような自然の法則に則った政治が行われることこそ理想の国「天寿国」が地上に顕現することである。

道教の神仙の住むという理想郷を聖徳太子は「天寿国」と表現し、地上に「天寿国」を顕現させようという理想に燃えて、天皇の名代(摂政)という立場で蘇我馬子大臣と共にさまざまな改革をおこなっていったのである。

574年 厩戸(うまやど)皇子〈後の聖徳太子〉誕生。父 用明天皇、母 穴穂部間人皇女。父母とも蘇我稲目の娘を母とする。蘇我系皇族のサラブレッド。  
587年 丁未(ていび)の変。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。蘇我馬子側にたって戦う。 
589年 400年ぶりに隋(589年〜618年)による中国統一。 
592年 蘇我馬子によって崇峻天皇暗殺される。用明天皇の后であった推古天皇即位。
593年 聖徳太子(20歳)が皇太子となり、摂政の役割を果たす。  
594年 仏法興隆の詔 (仏教の目的:戦争勝利・先祖供養・病気平癒) 
600年 遣隋使。120年ぶりに中国に使者を派遣する。圧倒的な官僚制度、国力に圧倒される。 
603年 天皇の聴政と官僚の執政の場をもつ、画期的な小墾田宮の造営。
官位十二階。後の官位の基となる。身分ではなく能力による職務階位を定める。 
604年 憲法十七条。官吏の服務規程を定める。  
606年 法隆寺を創建。(のち670年消失後再建=法隆寺は世界最古の木造建築物)。 
607年 遣隋使「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや、…」。  
618年 隋滅亡、唐(618年〜907年)。隋唐とも西域の影響のつよい国際色豊かな大帝国。
620年 「国記」「天皇記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編集させる。 
622年 2月21日妃の膳大郎女死亡 翌22日聖徳太子死亡49歳。暗殺された?  
626年 蘇我馬子大臣死亡。馬子は、大臣として第30代敏達天皇から第33代推古天皇まで4代の天皇に仕える。 
628年  推古天皇(75歳)死去。 

 隋のよる中国統一の衝撃によって、日本も急速に法体系を整えた、中央集権国家になってゆくことが求められるようになる。聖徳太子は、600年に第1回遣隋使を派遣し衝撃を受けたのではないか、以後矢継ぎ早に官位十二階、憲法十七条等公布して、威儀を整えて、日本書紀にも記載されている第2回遣唐使を607年に第3回遣隋使を614年に派遣し、律令体制を学ぶために、渡来人の子弟を留学させた。この留学生の知識が、日本の改革を志向した645年の大化の改新のクーデターに繋がることとなる。
 三輪山山麓の海石榴市(つばいち)−仏教伝来の地
 大和川は、西に流れ、現在堺市と大阪市の境界となっているが、これは、1704年につけ替えられたもので、それ以前は、北にながれ、古代の難波津(大阪城の跡地・難波宮付近)の北から大阪湾に流れていた。水量も豊富で、飛鳥時代・奈良時代には、難波津(難波宮)を経由して、大和川をさかのぼり、飛鳥の都や平城京に船で行くことが出来た。初期の大和政権の首都であったとされる纒向遺跡(200年頃成立)への交通も同様であった。仏教をもたらした百済の聖明王の使いも、608年来日した遣隋使の返礼使も飛鳥の海石榴市(つばいち:桜井市金屋)に上陸した。仏教は、飛鳥からひろまった。

 603年官僚が執務する場所を整え、天皇が聴政を行う広場を中央にもつ小墾田宮を中国にならい造営する。
 同年、官位十二階は、能力のあるものを登用するために個人に初めて12階の官位を与えることとし、儒教の徳目をもとに、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、あわせて12階とした。同時に五行思想の色である青・赤・黄・白・黒と帝王の色である紫に濃淡をつけて、冠の色とした。但、皇族、大臣は、この階位に組み入れられていない。最終的に階位は、大宝律令(701年)によって、正1位から始まる30階位として落ち着く事となる。
 604年制定の憲法十七条は、「和を以て尊しとなし、さからうことなきを宗とせよ。」で始まる、十七条にわたる、公務員の服務規範を示したものである。 後に明治政府が、西洋のConstitutionを「憲法」と訳した。
 588年蘇我馬子の発願により始めて本格的な寺院である飛鳥寺が建てられた。そして、聖徳太子によって、仏教は国家宗教となった。593年、聖徳太子の発願によって、日本最初の官寺である四天王寺が建立された。
 四天王寺を建てるために、百済から大工によって578年金剛組が組織された。四天王寺は七度も消失を繰り返したが、金剛組を守り、技術を受け継ぎ、すっかり日本人となったこの百済人の匠の子孫を長とする宮大工集団によって四天王寺の再建が行われてきた。現在では、全国の寺社のメンテナンス、新築を専門とする世界最古の建築会社である。金剛組は、現在も四天王寺の西に本社を構える。世界では、創業400年を超える会社は、ほとんど残っていないが、日本には、金剛組を筆頭として1000年を超える老舗も多数残っている。このような日本の伝統や国の古さ先人の努力をほとんど伝えてこなかったのが、日本の歴史教育であった。けして模倣ではない、あらゆる文化と技術を受け入れより発展させ、伝統として残してゆくのである。八百万の神々の国の特技ではないだろうか。ユダヤ教、キリスト教や、イスラム教などの一神教の国のような、オールorナッシングの思考ではなく、あらゆる良い物を受け入れることのできる柔軟性と、寛容性をもつ。もっと誇りをもって良いのではないか。日本には、あらゆる文化を取り入れ残し日本に同化し、発展させる不思議な魔力とでもいうものをもっている。これは、近隣の中国や朝鮮半島の国にあるような中華思想ではなく、良い物はよいと謙虚に受け入れ日本独自の特性である。けっして中国や朝鮮半島の国の亜流ではない。世界最古の独立を誇る国家の連続性であり、独創性というものであるが、いかがであろうか。これからのきらりと光るこれからも日本を紹介してゆきたい。
 603年秦河勝の発願による広隆寺や聖徳太子一族の606年斑鳩寺(法隆寺)など、有力豪族たちがつぎつぎと一族結集と権力誇示の場として古墳にかわり氏寺を建立してゆくこととなる。

  622年2月21日聖徳太子を看病していた后の膳大郎女が死亡し、翌日聖徳太子も死亡したとの記録が「上宮聖徳法王帝説」にあることから、聖徳太子は晩年、蘇我馬子と衝突し、毒殺されたのではないかといわれている。怨念を鎮めるために法隆寺は再建されたとか、「聖徳」という諡(おくりな=死後の尊称)をしたとかいわれている。法隆寺夢殿の救世観音像は、秘仏となっており、聖徳太子の生前の姿を写したとされている。実は、聖徳太子は、蘇我氏と物部氏の争いに心を痛め、日本古来の古神道が失われることを憂え、法隆寺の五重塔の地下に、物部氏所蔵の古神道の宝を埋めて守ろうとしたとの説まである。 
 
 720年の日本書紀編纂のころには、聖徳太子は、神格化されていた。10人の訴えを同時に聞くことができたので、「豊耳聡皇子」であるとの名も残されている。古代日本においての天才的政治家であったことはまちがいないであろう。イギリスの文明史家トインビーは、歴史を進展させるのは、天命をもった、創造的個人であると喝破した。時代を超えた先見性によって、歴史は動いてゆく。聖徳太子は、神格化され、聖徳太子信仰がうまれることとなる。
 飛鳥の中宮寺につたわる「天寿国繍帳」は、聖徳太子を偲んで、后のひとりである橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、推古天皇に願い出て、聖徳太子が理想とし、往生した天寿国のありさまを刺繍によって表したものである。聖徳太子が、天寿国を理想として、地上に天寿国を実現しようとして政治をおこなっていたことはあまりしられていない。 

参考図書

○『十七条憲法』(「全訳−現代文 日本書紀 下巻」宇治谷 孟著(創芸出版 1986年)

夏 四月三日、皇太子は始めて自ら作られた十七条憲法を発表された。 
一、 和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。人は皆それぞれ仲間があるが、全くよく悟った者も少ない。それ故君主や父にしたがわず、また隣人と仲違いしたりする。けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。
二、 篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。仏教はあらゆる生きものの最后のよりどころ、すべての国の究極のよりどころである。…
三、 天皇の詔を受けたら必ず謹んで従え。君を天とすれば、臣は地である。…天皇の命をうけたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するだろう。
四、 群卿(大夫)百寮(各役人)は礼を以て根本の大事とせよ。民を治める根本は必ず礼にある。上に礼がないと下の秩序は乱れ、下に礼がない時は、きっと罪を犯す者が出る。群臣に礼のある時は、秩序も乱れない。百姓おおみたからに礼のある時は、国家もおのずから治まるものである。
五、 食におごることをやめ、財物への欲望を捨て、訴訟を公明に裁け。…
六、 悪をこらし善を勧めるのは、古からのよい教えである。それ故、人の善はかくすことなく知らせ、悪を見ては必ずあらためさせよ。…
七、 人はそれぞれ任務がある。掌ることに乱れがあってはならぬ。賢明な人が官にあれば、ほめたたえる声がすぐ起きるが、よこしまな心をもつ者が官にあれば、政治の乱れが頻発する。… …古の聖王は、官のために立派な人を求めたのであり、人のために官を設けるようなことをしなかった。
八、 群卿百寮は早く出仕し、遅く退出するようにせよ。公事はゆるがせにできない。日中かかってもやりつくすのは難しい。それ故遅く出仕したのでは、急の用に間に合わない。早く退出したのでは、必ず業務が残ってしまう。
九、 信は道義の根本である。何事をなすにもまごころをこめよ。事のよしあし成否の要はこの信にある。群臣が皆まごころをもってあたれば、何事も成らぬことはない。群臣に信がないと、萬事悉く失敗するだろう。
十、 心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。… …相手が怒ったら、自分が過ちをしているのでないかと反省せよ。自分独りが正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行うところに従うがよい。
十一、 官人の功績・過失ははっきりと見て、賞罰は必ず正当に行え。…
十二、 国司、国造りは百姓からむさぼりとってはならぬ。…どうして公のこと以外に、百姓からむさぼりとってよいであろうか。
十三、 それぞれの官に任ぜられた者は、その職掌をよく知れ。…
十四、 群臣百寮はうらやみやねたむことがあってはならぬ。…
十五、 私心を去って公につくすのは臣たる者の道である。…
十六、 民を使うに時を以てするというのは、古の教えである。故に冬の月に暇があれば、民を使ってもよい。…
十七、 物事は独断で行ってはならない。必ず衆と論じ合うようにせよ。些細なことはかならずしも皆にはからなくてもよいが、大事なことを議する場合には、誤りがあってはならない。多勢と相談し合えば、道理にかなったことを知りうる。(P84〜P89))

○「古代天皇のすべて」前之園亮一・武光誠編著(新人物往来社 1988年)
○「千年、働いてきました」野村進著(角川書店 2006年)

平成19年06月28日作成  第032話