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  古代の日本には、朝鮮半島や中国大陸からさまざまな技術や文化をもって多くの人々が渡来してきた。いわゆる「渡来人」である。渡来人は、4次に渡って日本に渡来し、日本のあり方をすっかり変えてしまった。

第1次 紀元前2世紀
〜紀元3世紀
弥生人の日本侵略、環濠(環壕)集落を巡らし縄文人(原日本人)を征服支配していった。  
第2次 4世紀末
〜5世紀初
第15代応神天皇の代、秦氏の祖・弓月の君、漢あや氏の祖・阿知使主の来日。百済王の命令で、王仁が「論語」「千字文」を伝える。372年百済王より七支刀が倭王に送られる。応神天皇は後世八幡神として祭られる。八幡(ヤーハタ)はヤハウエを指すとの説もあり、ユダヤ系ともいわれる秦氏を受け入れたことに関係しているのか。 
第3次 5世紀後半
〜6世紀初
 第21代雄略天皇の代、今来漢人いまきのあやひとといわれ、陶器作りをはじめ、様々な技能の人々が来る。
第26代継体天皇の代、五経博士が百済より派遣され儒学を講じる。
第4次 7世紀末    第38代天智天皇、第40代天武天皇、第41代持統天皇の代、百済、高句麗両国の衰退、滅亡による亡命王族・貴族の来日。

 朝鮮半島では、特に百済との関係が深く、天皇家と百済の王家は同族ではないかとおもわせるほど緊密な関係があった。大和政権の軍事部門の豪族である物部氏の武器庫であった石上神宮には、372年に百済の王と世子(皇太子)から高句麗に備えるために援助をもとめる際の贈り物として倭王(日本書紀の記述によると神功皇后)に贈られたとされる七支刀が伝えられている。
 仏教は、継体天皇の子、第29代欽明天皇の時代、552年(「日本書記」)または、538年(「上宮聖徳法王帝説」「元興寺縁起」)に公式に伝えられた。百済の聖明王が、新羅軍の迫る中、軍事援助を求める切り札として、とっておきの仏像と経文、仏具を日本に贈ったのである。この時の様子が日本書紀にある。欽明天皇13年(552年)冬10月の記事に以下のようにある。

  天皇は、…欣喜雀躍され、…一人一人に尋ねられ、
『西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美を備え、未だ嘗て見たこともないものである。これを祀るべきかどうか』といわれた。
蘇我大臣稲目宿禰が申すのに、『西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」と。
物部大連尾輿・中臣連鎌子が同じく申すのには、『わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう』と。(宇治谷孟の訳による)

ここに崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部・中臣氏の争いがはじまった。政治闘争の様相を呈し、第31代用明天皇の時代に、蘇我馬子によって、587年物部守屋・中臣勝海が滅ぼされることによって、崇仏派の蘇我氏の勝利で決着をみた。大連として蘇我馬子大臣と宮廷の勢力を二分していた物部氏は滅亡し、中臣氏も没落した。物部氏及び中臣氏は、古くから天皇に仕え、天皇の軍事と祭祀を司っていた。ここに、古事記や日本書紀にみられる清明正直の「あかき心」「清き心」を重んじる古神道派は敗北し、国家の指導的な宗教としての地位は、仏教にその座を奪われることとなる。
 弥生人としてやってきた第1次の渡来人によって、漢字は日本に入ってきていることは、遺物からも証明できるが、なかなか浸透しなかった。仏教の経典が漢字で書かれている影響によって、ようやく漢字の使用が日本の社会に浸透することとなる。

 
「七支刀」 
 大和政権を支えた物部、大伴、中臣、平群氏などの豪族の権力闘争の最後の勝者が蘇我氏であった。蘇我稲目は、娘2名を第29代欽明天皇(在位531年〜571年)の妃として入れて、天皇の外戚(母方の実家)となった。以来外戚の地位を失った後も第44代元正天皇(在位715年〜724年)までの150年間蘇我氏の血を濃く受け継ぐ天皇が、例外を除いて皇位を継承してゆくこととなる。蘇我氏は、645年の大化の改新も、672年の壬申の乱も一族としては生き残り権力をふるった。
 蘇我氏の出自については不明なことが多い。「古語拾遺」によると雄略天皇の時代、蘇我満智が、天皇の三蔵(斎蔵、内蔵、大蔵)を管理するようになって歴史の表舞台に立つこととなる。三蔵を管理することにより、大和王権の財政をまかせられ、絶大な権力をふるうようになってくる。

 
メノラー
 蘇我氏は、秦氏や文筆を得意とした渡来人の管理を一手に引き受けていることから、蘇我氏は、百済の王族か貴族の末裔ではないかという有力な説がだされている。同族である朝鮮半島からきた渡来人の統率者として認められたのではないか。古神道家の浅見宗平は、ユダヤ系朝鮮人であると断言している。百済や高句麗の王家は、朝鮮系の民を征服した騎馬民族扶余で在ることが分かっている。古代ユダヤ王国が滅亡して騎馬民族と同化してユダヤ人がシルクロードの東の果ての朝鮮半島の支配者となったのではないか。そうすると、ユダヤ人は、渡来人として日本にも渡ってきていることになる。百済王より贈られた「七支刀」とユダヤの「メノラー(七枝燭台)」との類似性が指摘されている。どちらも枝が七つある。「メノラー」は、天地創造が七日で行われたとされる創世記の物語を象徴 している「一つの台から七つの枝が出ている燭台(ろうそくを立てる台)」でユダヤ教のシンボルとなっている。
 蘇我氏に話を戻すと確かに、日本書紀にも、百済人として満智という名がいくつか出てくるので、百済系の名前であることがわかる。さらに、蘇我家七代の系図を順番にならべると、満智−韓子−高麗−稲目−馬子−蝦夷−入鹿となり、母が渡来人の場合に使われていた韓子や朝鮮半島出身を暗示する高麗という名前がつづく。あるいは、百済・新羅・高句麗に対応する名前を後世創作したのではないかともと言われている。

参考図書

○「仏教伝来・日本編」梅原猛ほか著(プレジデント社 1992年
○「蘇我氏と古代国家」黛弘道著(吉川弘文館 平成3年)
○「帰化人と古代国家」平野邦雄著(吉川弘文館 平成5年)
○「全訳現代文 日本書紀 下巻」宇治谷 孟著(創芸出版 1986年)

平成19年06月18日作成 第031話