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 スカンジナビア半島の入り江を根拠地とするバイキング(ノルマン民族)の首領ロロ(在位911〜933)が、フランスにノルマンディー公国を立てた。子孫のノルマンディー公ウイリアム(在位1035〜1087)は、イングランド王国の王位継承権を主張して、イングランド国王ハロルド(在位1066年)に1066年へースティングスの戦いで勝利し、フランス国王の臣下としてのノルマンディー公でありながら、イングランド国王となった。これをノルマン・コンクェストという。つまり、このノルマン朝(1066〜1154)のイングランド国王は、イングランドの国王と同時にヨーロッパ大陸のフランスに広大な領土を所有していた。ノルマン朝のあとも、百年戦争(1337〜1453)の敗北で、大陸での領土を失うまで、イングランド国王は、フランスに領土を保有していた。言い換えるとイングランドの国王は、フランスとイングランドにまたがる領土をもっていた。しかも、本籍地がフランスのノルマンディー公国であった。
  同じようなことが古代日本でもあったのではないかというのが、「騎馬民族征服説」である。1948年に東京大学の江上波夫が提唱し、たちまち一世を風靡した。日本の征服における、ノルマンディー公国にあたるのが、南朝鮮の弁韓の地である。弁韓の加羅の地は、日本書紀には、任那日本府が置かれたと書かれている。江上波夫によれば、任那(加羅)は、当時の倭韓連合王国の首都であった。朝鮮史料においては、任那は加羅諸国のうち金官国をさすことばである。
 高句麗の首都であった丸都、現在の中国吉林省集安県に高さ6.3メートルにもおよぶ広開土王碑(好太王碑)がある。旧日本軍によって拓本が改ざんされたという主張もなされたが、今日では改ざんはなかったとされている。さて、この広開土王碑に、391年に倭(当時の日本)がしばしば、海をわたって半島にやってきて、百済や新羅を「臣民」としたとある。4世紀末に今日の北朝鮮の地にあった高句麗にまで、倭はやってきて高句麗と戦っているのである。このことも、ヨーロッパ史の百年戦争の故事と同じように、朝鮮半島に倭の本籍地があったとするならば、自然な成り行きである。

「騎馬民族征服説」によれば、東北アジアの騎馬民族扶余の王族、辰王(秦王)家は、高句麗や百済の王家として君臨し、本家が弁韓の地から3世紀始めにに北九州に侵入し力を蓄え、4世紀末から5世紀初めに、倭国の中枢である近畿圏に侵入し、秦(辰)王国を形成した。中国の歴史書にも、飛鳥の都のことを秦王国と記載されていることが傍証になるという。任那諸国の雄であった金官国も532年に新羅に滅ぼされたしまった。百済の王家と天皇家が同じ王家であれば、朝鮮半島最後の足がかりとして、古代の日本の天皇家が、百済と同盟を結びあらゆる機会を通じて、百済に執着し663年の白村江の戦いに大軍をおくって百済を再興しようとしたことや、百済滅亡後も執拗に百済の復活を企てた理由もはっきりしてくる。南朝鮮に同盟国を失って初めて、島国に天皇家は閉じこもってしまったともいえる。あたかも百年戦争に敗北して、イギリスが島国としてまとまりをなす事ができたごとくである。

崇神天皇  3世紀初め 北九州進入 
応神天皇  4世紀末から5世紀初め 大和中枢に進出 
 
 江上波夫によれば3世紀加羅から北九州に侵入したときの王は、のちの崇神天皇である。崇神天皇は、任那の地名を冠する御間城入彦という。文字どうり、ミマ城にいた天皇という名をもっている。また、記紀の天孫降臨神話は、新羅の建国神話と類似している。南朝鮮に朝鮮の王が降臨したと同じ地名に天孫が降臨したと読み取れるようになっており、朝鮮神話を元に日本書紀が造られているのではないかと思わざるをえない。もっともこれは、天武天皇が、渡来人の助けで壬申の乱(672年)に勝利したので、歴史の編纂を渡来系の人びとにゆだねた事によることによるのかもしれない。
 江上波夫は、古墳時代を前期と後期にわけた。後期は4世紀末から5世紀初めにはじまり、副葬品が、劇的に変化したという。前期には鏡などの呪術的な副葬品が多い。後期になると、騎馬民族の特徴を表す馬具や武具など実践的なものが副葬品として埋葬されるようになるという。
 古墳時代前期の前方後円墳の日本独自の形を踏襲しながらも、4世紀末から5世紀始めの応神天皇時代になって巨大な前方後円墳が造られ始める。巨大な墓を地上に造るのも江上波夫によれば騎馬民族の特徴であるとされる。九州から近畿圏に進出した王こそ、応神天皇であるとされる。400年頃には、纒向遺跡(まきむくいせき)がうち捨てられてしまうことと時を同じくして、渡来人来日の第2波があり、多くの渡来人が近畿圏に住み着くこととなる。(渡来人来日の第1波は弥生時代の始まりになる。)このことも、応神天皇及びその取り巻きの征服者達が朝鮮の同族を多数呼び寄せたと考えると、すんなりと渡来人がスムーズに政権の中枢に奉仕していたことが割り切れるのではないか。
 先に、縄文時代から弥生時代の切り替わりは、環濠集落の発達から渡来系弥生人の縄文人の征服によるものであると考えることもできると述べた。
 日本は古くから大和と書いてヤマトと自称してきた。中国系(磐古系)の渡来人、朝鮮半島から渡ってきた渡来人ともともと日本に住んでいた縄文系とでも言える日本人と三者が大和(だいわ)して仲良く暮らしているのが古代日本ではないだろうか。
 古代朝鮮の三国のうち、高句麗と百済の支配者は、騎馬民族扶余である。新羅のみは、支配者も韓民族であるとされている。朝鮮系の渡来人の中には、騎馬民族系あるいは、シルクロードを経てはるばる日本にたどり着いたとされているユダヤ系の渡来人が多くいるのではないか。朝鮮系の渡来人よって、ユダヤ民族の風習や文化があまりにも多く日本にもたらされているのである。また、6世紀前半の「梁」の事がかかれた中国の歴史書「梁書」(629年)には、倭国の王は自らを呉の太伯の子孫であると称したとある。太白は周王家の聖人で、前11〜前12世紀の人物であるとされる。初代神武天皇は、磐古系なのか。古代天皇家には不明なことが多い。古事記、日本書紀、続日本紀(日本書紀の続きがかかれた歴史書・第50代桓武天皇の時代までが書かれている)に記載されている古代国家の天皇の系譜も、日本古来の天皇家、磐古系、ユダヤ系の天皇家という三者の三つどもえの権力闘争の歴史隠滅競争の結果、わかりにくくなっているのではないかと想像する。

 「万世一系」を主張するあまり、神武天皇以来男系の男子が皇統を嗣いてきた強調しすぎると真実を見失う現実があるのではないかと思う。系図をみると出雲朝の王位継承予定者であった事代主命の娘が、初代神武天皇及び二代綏靖天皇の皇后となっている。同じように、神武天皇の神倭朝になってからも、女系血統の配偶者として入り婿として天皇になった場合もあったのではないかと考えられる。どちらにしての祭祀王としての天皇の皇位継承は、天の神々を祭祀し、国民を神宝となすという伝統を継承している。また、神武天皇以来、世界の平和と国民の安泰を祈るという田中智学の提唱した「八紘一宇」の精神を受け継ぐものとして世界に比類のない伝統を継承する祭祀王としての役割は今日まで継承されている。この事こそ世界の奇跡であり、日本の世界誇れる国のあり方つまり『国体』であると考える。

参考図書

○「奇跡の日本史 花づな列島の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研究所 2010年)
「もし、実際に騎馬民族がやって来て先住のヤマト民族を征服したとすれば、もっとすごいことが日本の先史時代に起きていたことになる。なぜかというと、騎馬民族の征服王朝は、これだけ豊かな恵みのある島に住んでいれば農耕民と牧畜民に分けてリスクを分散する必要はないことを一代か二代悟ったにちがいないからだ。
 自分たちの王族とか偉い豪族とかを埋葬するときの副葬品などでは騎馬民族らしい伝統を守ったとしても、日本にやってきたとたんに牧畜民としての生活様式を守る必要はないと感じたわけだ。そうでもなければ、牧畜を主業としていた征服民族が、牧畜の生活様式を守らずに農耕民の上に君臨する祭祀担当者に変わってしまったというような事態は起きていたはずがない。
 つまり、もし騎馬民族が、農耕を始めて間もなかった弥生時代の日本土着の農耕民を征服したとすれば、彼らは日本にやって来るとほとんど同時に農耕民に同化したというわけだ。」(77頁)

○「江上波夫の日本古代史―騎馬民族説四十五年」江上波夫著(大巧社 1992年)
○「騎馬民族国家 改版」江上波夫著(中公新書147 1967年)
○「対論 騎馬民族説」江上波夫・森浩一著(徳間書店 1982年)

平成19年06月18日作成 平成25年10月25日最終更新  第030話