本文へスキップ
  日本書紀によると、初代天皇とされる神武天皇は、紀元前660年の1月1日(旧暦)に奈良県の橿原宮(かしわらのみや)で即位されたとされている。明治5年(1872年)に日本紀元元年を神武天皇の即位の年とすることを定めるにあたり、明治政府がグレゴリオ暦に直すと即位の日が紀元前660年2月11日にあたるので、この日を紀元節として明治6年より祝日となった。2011年11月15日のアップデートまでアメリカ合衆国のCIAの建国記念日のデータの日本の項では「660B.C. (traditional founding by Emperor JIMMU)」となっていた。そこまで、さかのぼらなくても、700年頃には、「日本」という国名も確定し、伝統文化を受け継いでいる世界最古の統一を維持してきた国家であることは間違いのないところである。もっと、日本の歴史と伝統に誇りをもってよいのではないか。
 第二次世界大戦敗北後の昭和22年(1947年)日本国憲法下の建国記念日として政府によって提案されたが、占領軍によって削除された。昭和42年(1967年)より、「建国記念の日」となり、国民の祝日となっり現在に至っている。
国家として存亡がかかっていた江戸時代末の危機に対して、神武天皇の建国にならい、明治天皇を国の柱として明治維新は成し遂げられた。そのシンボルとして神武天皇を祀った橿原神宮が1890年に創建された。
 「日本書紀」によれば神武(じんむ)天皇即ち神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、紀元前667年秋45歳の時、宮崎県の高千穂を発って海路、瀬戸内海を通って、大阪府の河内の国の白肩之津に上陸して、そこから大和の国に入ろうとして敗北し、大阪平野を船で南下し、和歌山県の熊野を経由して大和の国に入り、紀元前660年大和の国を征服して橿原の宮で即位したとされている。
 これを神武東征というが、それに先立ち、大国主命(大国主神)の国譲りの神話が「記紀」に記されている。「葦原の中つ国」を治める大国主命に、神武天皇の遠祖にあたる天照大神の使いが、国譲りを迫った。大国主神は、息子の事代主神と建御名方神にはかり、事代主神は隠れ、弟の建御名方神は、戦いに敗北し諏訪に逃れた。現在の諏訪大社の祭神である。
和歌山県熊野本宮大社のシンボル/八咫烏(やたがらす) 
諏訪大社の祭りは、ユダヤの祭りであるといわれているが、ややこしくなるのでここでは説明を省略する。 大和の三輪神社の祭神も大国主神とされているので、神武天皇の東征以前は、大国主神の王国があった史実を反映しているとみられる。日本各地の一の宮には、大国主神一族が祭神となっているので、出雲と大和の国を中心に、本州の大部分を統一していたことが推測される。神武天皇の先祖は、天から降りてきたとされている。遠くから来たということであれば、中国は春秋戦国時代(前771年〜前221年)の混乱期にあたっているので、中国大陸から日本を侵略し征服したのではないだろうか。大国主神の王国を神武天皇が侵略し、大国主神の忍従によって徹底抗戦とならず、大国主神の国譲りによって新たな王朝が成立したとするならば、前660年以前の歴史があったことになる。いずれにしても前660年より神倭朝の皇位は受け継がれてきたことになる。古きこと唯一無比の国である。このことを日本人は誇りをもってもいいのではないかと思う。しかし、天皇家の存在を封建的遺制であると教えられてきたことにより、殆どの国民が、誇りをもてなくなってしまったというのが現実である。国に誇りを持てない世界市民などあり得ないのに、天皇がいることが悪であると教えられて、冷静に日本の国を見る目が失われてしまったことを残念に思う。


 神武天皇の創始した王朝を神倭伊波禮毘古命の名にちなんで、神倭(かむやまと)朝といい、その前の大国主神の王朝を出雲朝ということがあるが、出雲朝勢力があなどれなかったことは、神武天皇と二代綏靖(すいぜい)天皇の皇后が事代主神の娘であったことからも推測される。あきらかに政略結婚である。神倭朝十代崇神(すじん)天皇の時代にも、出雲勢力を押さえるために、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が四道将軍の一人として派遣されている。武勇に優れた吉備津彦の活躍は、後世「桃太郎伝説」となる。
神武天皇は、国内の融和を掲げて、治世をおこなった。このことが「八紘一宇(はっこういちう)」ということばであり、「国中をひとつの家のようにしよう」という意味である。後代侵略のスローガンと理解されるとは予想だにできないことであったろう。
 神武天皇の東征の跡であるが、大阪に上陸したときに、波が早かったので浪速(なみはや)といったので、浪速(なにわ)の地名がついた。また、幼名を狭野尊(さののみこと)といい、大阪の泉佐野市や和歌山県の新宮市佐野などに東征の通路に地名として残る。熊野からは三足の八咫烏(やたがらす=おおきなからす)によって導かれ大和の国にはいった。八咫烏はサッカーのJリーグのシンボルともなっている。

参考図書

○「古代日本史―神武天皇・古代和字―」岩邊晃三・富永浩嗣著(錦正社 平成22年)
  ※原文は旧かなづかい・旧字体
 「神武天皇は幼少名を狭野尊(さぬのみこと)と申し上げ、其の後、彦火火出出見との記述が残されているが、正式なる御称名を、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)[日本書紀]、神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれびこのみこと)[古事記]と御称名申し上げる。又別名『始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)』とも申し上げることが記述されている。この別名のところは、知り置くべき事として論を加えて置きたい。
 我国の歴史から省みると、漢字は後世に儒教、道教、仏教等と共に入って来たものであり、要するに「当て字」である。現代風に言えばルビを振ったということであるので、漢字を取除いて見ることにより、その意が明らかになってくるのである。『ハツクニ』とは、「初日出」とか、「初春」とかの「ハツ」、つまり「生まれ変わった新たなる国の意」と解すべきであろう。『シラス』は『治(しらす)』。永き日本歴史の流れの中で、新たに生まれ変わった日本、新たに生まれ変わった文明、文化。正に大改革を断行され、発展せしめられた御聖業と御聖徳に対し奉り、『御讃えする意味での御称名』ということになる。この『生まれ変わる』という意味には、歴史的な検証を述べたいところであるが、又別の機会としたい。
 我々は皇紀二千六百七十年(平成二十二年当時)という、世界に類稀なる国の歴史を戴いた。それは正に『世界人類の宝』というべき我国の皇国の歴史であることを再認識し、その御聖業と祖先の精進に対し、敬虔なる感謝の想いと心よりの賛美を申し上げなければならない。省みるとき、神武天皇の御聖業の最たるテーマは『米作り』ということである。つまり『稲作の文化』ということである。稲[米]作りに関しては、近年考古学上でも解明されている如く、既に縄文時代より生育が行われていた。然しこれは『陸稲(おかぼ)』であったようだ。一方、水田による稲作りに関しては、記紀の記述からも伺えるように、伝えられていた向きはあるが、限られた局地的なものであったことが伺える。神武天皇はこの農業技術を大和を中心として、広域的に計画的に計画し、御弘めになった。そして、臣民が安定的に食を保つことが出来るよう発展せしめられ『米』を我国の主食として定着せしめられ、臣民の健やかな営みを祈られたのである。由って、我国では、古来から農事に関する祭を重んじ、特に天皇御一代一度の大嘗祭(おほにへのまつり)並に年毎の新嘗祭(にひなめのまつり)には、夜を徹して御親祭遊ばされる。その本質にあるのは、稲穂[米]であり、『吾が高天原(たかあまはら)に御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以て、亦(また)吾(あ)が児(みこ)に御(まか)せまつる』の御神勅によるものであり、皇祖の親授し給いし稲穂を尊み、瑞穂の国の民を慈しみ給う神代ながらの御精神が、今日まで継承されているものである。又、その事業は天皇の我国を愛し、臣民を愛し給う故の、国造りの現れであったことを知らなくてはならない。広域的、組織的米作り農業を発展させることにより、臣民が心を一にし、良く話合い協同一致してこそ、推進す繁栄を得ることが出来、天祖、皇祖の御意(みこころ)に叶う生活が許されるのでという我国の国造りの精神を御指導賜ったのであることを忘れてはならない。
 我国に於ける村社会、又は合議(話合い)国家、家族制度等、お互いがお互いを尊び支え合い、助け合い、『和(やわらぎ)』の精神を持ち、心を一にして日々の生活を営んだ結果の今日までの『精華』は、実は、神武天皇の全体的協同一致による米作りを通しての、新たな国造りにより果たされた精華であったことに気付かなければならない。正に、我大和の国の繁栄と発展とは、『和を以て』一致団結し、心を一にした協同一致の精神であり、その本質が存するのである。生まれ変わった大和。其れ故に神武天皇を『始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)』と御讃え申し上げるのである。……我国は其の後、その御精神と大改革を奉じ、以後の天皇(すめらみこと)に継承されて行くのである。」(86頁後2行〜89頁前2行)

○「全訳―現代文 日本書紀 上巻」宇治谷孟訳(創芸出版社 1986年)
「巻第三 神武天皇 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)

自国の歴史を学ぶということは、非常に大切なことである。明治維新は、神武天皇による建国の時の大国主命の国譲りをモデルとしている。平和裏に政権委譲した前例があってのである。神武天皇による建国の理想「八紘一宇」を今からでも伝えて行かなければならないと思う。「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと,亦可からずや。」が「八紘一宇」の精神である。東京裁判でも、侵略思想であるとは、認定されなかった。植民地化という未曾有の危機にあった江戸時代末「諸事神武創業ノ始二原(もとづ)キ」という1867年12月9日の王政復古の大号令により明治維新が始まった。明治維新の精神的なベースもまた、神武建国の理想にあったのである。今また、第二の明治維新が必要とされている。日本神話教育の復活が必要とされている。
 三月七日、令を下していわれた。『東征についてから六年になった。天神の威勢のお陰で凶徒は殺された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りのわざわいは尚根深いが、中州(うちつくに)の地は騒ぐものもない。皇都をひらきひろめて御殿をつくろう。しかし今世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開のならわしが変わらずにある。そもそも大人(ひじり)が制(のり)を立て、道理が正しく行われる。人民の利益になるならば、どんなことでも聖(ひじり)の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安んずべきである。上は天神の国をお授け下さった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を掩(おお)いて一つの家とすることは、また良いことではないか。見れば畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中(もなか)である。ここに都を造るべきである』と。」(98頁〜99頁)

○「日本書紀 上」坂本・家永・井上・大野校注(「日本古典文学大系67」岩波書店 1967年)

「三月の辛酉の朔丁卯に、令を下して曰はく、「我東を征ちしより、茲に六年になりにたり。ョるに皇天の威を以てして、凶徒就戮されぬ。邊の土未だ清らず、餘の妖尚梗れたりと雖も、中洲之地、復風塵無し、誠に皇都を恢き郭めて、大壮を規りつくるべし。而るを今運屯蒙に屬ひて、民の心朴素なり。巣に棲み穴に住みて、習俗惟常となりたり。夫れ大人制を立てて、義必ず時に随ふ。苟しくも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨はむ。且當に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて寶位に臨みて、元元を鎮むべし。上は乾霊の国を授けたまひし、徳に答へ、下は皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦よからずや。観れば、夫の畝傍山の南東の橿原の地は、蓋し国の墺區か。治るべし」とのたまふ。」
「やよひのかのととりのついたちひのとうまのひに、のりごとをくだしてのたまわく、「われひがしをうちしより、ここにむとせになりたり。かうぶるにあまつかみのいきほひをもってして、あたころされぬ。ほとりのくにいまだしずまらず、のこりのわざはひなおあれたりといへども、うちつくに、またさわぎなし。まことにみやこをひらきひろめて、おおとのをはかりつくるべし。しかるをいまよわかくくらきにあひて、おおみたからのこころすなほなり。すにすみあなにすみて、しわざこれつねとなりたり。それひじりのりをたてて、ことわりかならずときにしたがふ。いやしくもたみにかがあらば、なぞひじりのみちにたがはむ。あさにやまはやしをひらきはらひ、おおみやををさめつくりて、つつしみてたかみくらにのぞみて、おほみたからをしずむべし。かみはあまつかみのくにをさずけたまひしみうつくしびにこたへ、しもはすめみまのただしきみちをやしなひたまひしみこころをひろめむ。しかうしてのちに、くにのうちをかねてみやこをひらき、あめのしたをおほひていえにせむこと、またよからずや・みれば、かのうねびやまのたつみのすえのかしわらのちは、けだしくにのもなかのくしらか。みやくつくるべし」とのたまふ。」〈212頁〉

○「日本人はいつ日本が好きになったのか」竹田恒泰著(PHP新書 2013年)

「◎建国の経緯を教えられない現代日本人―――――
 占領期にGHQが歴史の教科書を徹底的に改変したことは、現在の日本の歴史教育にも色濃く残されている。いや。「残されている」どころか、本質的には何も変わっていない。平成に御代に至っても、被占領下の敵国が一方的に押し付けた偏った歴史教科書を後生大事に使っているのであるから、この実態を当時のGHQ の担当者が知ったら、驚くに違いない。
 そして、戦後教科書には日本人として最低限度知っておくべきことが書かれていないことは大きな問題であろう。その筆頭に挙げられるのが、わが国の建国の経緯とその精神である。米国の学生で祖国独立の経緯を知らない者はいないし、フランス革命を知らないフランスの学生や、毛沢東を知らない中華人民共和国の学生などいるはずもない。
 また、米国の学生は祖国の建国の精神が「自由」であること知っているし、同様にフランスは「平等」、そして中国は「マルクス・レーニン主義の実践」であることは若者たちは知っている。
 世界のどの国でも自国の建国の経緯とその精神などは知っているものであり、それが世界の常識である。そして、なぜ知っているのかといえば、それは「教えている」からにほかならない。
 他方、日本の若者で建国の経緯を知るものは皆無に近い。平成二十四に行われた調査で、「わが国を建国したのは誰か」「わが国が建国されたのはいつか」の問いに答えられた高校生はわずか二%だったという結果がある(山本みずき「18歳の宣戦布告 国家観なき若者に告ぐ」『正論』平成二十五年五月号)。しかもその二%の生徒の大方、建国について知ったきっかけを家族から教えてもらったと答えている。この数字は、国際的に見て異常な低さと言わねばならない。
 外国に留学した日本人が「日本は建国から何年目か」「最初の天皇の名前は」などと問われて答えられないと、怪訝な顔をされる。そればかりか、建国を語れない者は軽蔑の対象になりかれない。日本に生まれ育って日本の国の成り立ちをしらないなどということは、世界の人々は信じない。
 そして、日本人が建国を知らない原因は明らかである。それは「教えていない」からだ。普及している中学の歴史教科書では、最初に紹介される天皇は推古天皇であり、それ以前の天皇については記載がない。これでは子どもたちが最初の天皇を推古天皇だと思っても致し方あるまい。
 中学生に聞くと、日本を建国した人物としてはいちばん多く名前が挙がるのが卑弥呼だが、それは教科書の最初に記載される個人名が卑弥呼であることによる。このように、日本の教科書は建国についてまったく記していない。そして、世界で教科書に建国の歴史を書いていないのは、おそらく日本だけだと思われる。その一点だけで、日本の教科書がどれだけ異常なものであるかを知ることができよう。(76頁4行〜78頁9行)

「◎明治天皇を紹介しない中学の教科書―――――
 ここで、日本の建国について簡潔に述べておきたい。朝廷が編纂した公式な歴史書である『日本書紀』によれば、わが国の建国は、紀元前六六〇年に神武天皇が橿原宮に即位したことに遡る。そして、この見解は歴代内閣が踏襲していて、日本は平成二十五年で建国から二千六百七十三年を迎えたことになる。(※実は神武建国の前に、大国主王朝があったので、さらにさかのぼる。)
 ところで『日本書紀』は神話であってフィクションに過ぎないという意見もある。たしかに『日本書紀』は神話から書き始められている。だが、考古学の発掘成果から検証しても、三世紀初頭に出現した最初の前方後円墳が当時の天皇の墓であることは疑う余地がない。なぜなら、四世紀には北は東北、南は南部九州まで前方後円墳が造られるようになり、それをもって大和朝廷が統一王権に発展したと見られるからである。
 先述の初期の前方超えん分の起源はさらに数百年遡ると考えるのが自然であり、三世紀初頭は約千八百年前に該当するため、そこから数百年遡れば、考古学の見地から考えても「二千年かそれ以上」前であるから、両者の間には数百年程度の開きしかなく、『日本書紀』が記すことをあながち「空想の話」として切り捨てることはできない。
 したがって、わが国の建国を教科書に記すなら、正史『日本書紀』に書かれている建国の経緯を示し、それがある程度考古学で検証されていることを、具体例を挙げて示せばよかろう。
 大和朝廷が統一王権に成長した四世紀、当時の日本列島の様子を知ることができる文字史料は二点しか現存していない。百済の王が倭王に贈ったとされる三六九年の『七支刀』の銘文と、高句麗の好太王(広開土王)の功績を記した三九一年の『高句麗好太王碑』(中国吉林省)の碑文である。日本列島における四世紀は文字のない時代といっても差し支えない。
 だが、その「文字のない時代」に大和朝廷が統一王権に発展したということは、前方後円墳の広がりからして明らかである。「文字のない時代」の出来事であるがゆえに、文字による記録が乏しいのはむしろ当然のことであり、だからといって日本が建国しなかったことにはならない。
 不明な点が多いのは確かだが、二千年かそれ以上前に、大和朝廷が成立し、やがてその努力が日本を統一したことは覆すことのできない歴史的事実である。そして、日本の建国の精神は「和」であったことも日本人なら知っておくべきだろう。日本の建国については拙著『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』(PHP新書)に詳細を記しているので、参照されたい。
 その他、本来書くべきことが抜け落ちている事柄は枚挙に遑がない。たとえば近年の中学の歴史教科書の大半は、初代神武天皇を紹介していないのは想像がつくとしても、明治時代の項で明治天皇が紹介されていない教科書が多い。明治天皇に一言も触れずに、明治時代のいったい何を教えようとしているのか、まったく不明である。
 また、世界最古の磨製石器と世界最古級の土器が日本から出土していることは、多くの教科書に言及がない。さらには第二章で述べた、マッカーサー元帥の前で自らの命と引き換えに国民の命を守ろうとなさった昭和天皇の話なども書かれていない。その他、神武天皇から第一二五代の現在の天皇陛下に至るまで、仁徳天皇の竈の煙の話や、国難に当たって国民の安全を祈り続けた亀山上皇の話など、美しい天皇と皇族の姿が語り継がれているが、やはり、どれ一つとて、教科書に紹介されることはないのである。
 それどころが、読むだけで日本のことを嫌いになってしまうような事柄は、何の派ばかりもなく教科書に書かれる。なかには歴史事実と認定されていないこと、たとえば南京大虐殺の三〇万人は、軍が関与して行われた従軍慰安婦なども書き込まれる始末である。」(78頁10行〜81頁11行)

平成19年02月11日作成 平成28年09月03日最終更新  第017話