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5.縄文文明の輝き
 旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形成などが挙げられます。特に、土器の使用が、縄文時代の始まりです。
 青森県の大平山本遺跡で発見された1万6500年前の土器が今のところ世界最古の土器です。長崎県北松浦郡吉井町から福井洞穴より12000前の土器、長崎県佐世保市の竜泉寺洞穴より13000前の土器が発見されました。1万年ほど前よりこの土器に縄目の模様が付けられ始めました。
 

縄文時代は紀元前1000年頃まで13000万年つづきます。自然と共生したエコロジー文明であり、日本の文化の基層をなします。大自然の声を聞き、和を重んじる日本人の形質は縄文時代に培われました。
 現在発見されている遺跡では、12000年前の鹿児島県加世田市栫ノ原(かこいのはら)遺跡、鹿児島市の掃除山遺跡などが、土器や磨製石器、竪穴式の住居跡がある最古の縄文定住遺跡です。この頃より狩猟・採集の生活を基本とした定住生活も日本で始まります。

石で蒸し焼きにした料理場跡も出土しました。温暖化の進んだ南九州から豊かな自然の恵みに支えられた縄文時代が始まりました。栫ノ原遺跡からは、世界最古の丸ノミ型石斧が見つかっています。丸太舟の製作に使われました。丸太舟で外洋に繰り出していたことになります。
 青森県の三内丸山遺跡は、紀元前3500年頃から紀元前2000年頃までの約1500年間存在した巨大な都市とでもいえる集落跡です。35ヘクタール、東京ドーム7.5個分の広さをもちます。江戸時代から知られていた遺跡でしたが、1992年から本格的な発掘がおこなわれ、大規模な土木工事をともなった定住遺跡であることが確認されました。
 中心建物として90畳敷きの楕円形の大型竪穴建物や、太さ1メートルの柱を2列3本づつ4.2メートルの縄文尺で栗柱で立てた巨大建造物あるいは立柱が見つかっています。後者は、立柱として復元されていますが、この建物は神殿建築ではないかと思います。それはあの古代の出雲大社の復元図を見ても明らかです。

木製品と土器の漆器も見つかっており、色は赤と黒で、下地を塗り、上塗りをしています。中でも、赤漆のお椀は見事です。紀元前3500年頃の泥炭層から、衣服の一部であったらしい平織りの織物、中からクルミが出てきた縄文ポシェットと呼ばれるもの等も発掘されています。高度な技術をもっていたことがわかります。
 線刻土器(上野原遺跡 写真:野崎りのブログによる)
縄文土器に刻まれた神代文字。3文字のうち左から1番目は不詳。2つ目、3つ目は代表的な神代文字であるアヒル草文字の「ヌ」「ナ」とよめる。

基本は、海の魚、山の小動物や木の実、鳥などを狩猟採集していたようですが、ヒョウタンやエゴマなどの栽培植物も見られ、栗も栽培管理されていました。酒を造っていたらしいこともわかっています。
 人口は、最盛期で200名から500名くらいであったと推測されています。500キロ離れた新潟県糸魚川のヒスイなども装飾品として加工されたものが見つかっており、北の縄文王国の都あるいは交流センターの役割をになっていたらしいことがわかります。
 寒冷化とともに東北の縄文遺跡は衰退してゆき、紀元前2000年頃三内丸山遺跡の終焉をむかえます。
 富山県小矢部市の桜町遺跡では、紀元前2000年頃の掘立柱高床式建物の建築部材が100余り出土しています。建築技法として「ほぞ」とか「えつり穴」の加工もされており、高度な建築技術が推測されます。

平成10年12月29日の毎日新聞朝刊によると、桜木遺跡より3000年も古い中国浙江省の長江沿いの河姆渡(かぼと)遺跡の建築技法と一致するといいます。  河姆渡(かぼと)遺跡とは、紀元前5000年頃から紀元前3500年頃の遺跡で、7000年前の地層から世界最古の漆器が見つかっています。また、稲作遺跡としても有名です。なお、日本の最古の漆器は、福井県三方郡三方町の鳥浜貝塚出土の6000年前の朱塗りの櫛です。
 稲作は1万2000年前に中国の長江の中・下流域で始まったとされていますが、日本でも、6000年前の岡山県灘崎町の彦崎貝塚や岡山市の朝寝鼻貝塚から、栽培種の稲の化石が見つかっています。
東京都北区の中里貝塚では、4500年前のマガキとハマグリの加工場が見つかっています。縄文時代に大量のマガキとハマグリが焼け石でゆでられ加工されていた施設でありました。保存用なのか交流商品だったのかは不明ですが、縄文時代は、決して食料の採集にあけくれた惨めな時代ではありませんでした。

 縄文時代は、私たちが考える以上に高度で洗練された「循環型社会」を形成していました。そして、1万3000年にも及ぶ世界で最も長い文明がつづきました。縄文時代には、戦争の跡が見られません。矢尻や弓矢は動物を捕獲することに使いましたが、戦闘には使用しなかった訳です。また、縄文時代は、エデンの園のような楽園の中で、大自然を畏れながら尊びました。神を拝み、食物を分け合い、芸術の心を育てて、世界に類例のない大らかで多様な縄文土器をはじめ、祈りの対象とした宇宙人に似た遮光器土偶を作りました。 

参考図書

○「縄文文明の発見 驚異の三内丸山遺跡」 梅原猛・安田喜憲編著(PHP研究所 1995年)
 「文明というからには文字が必要だし国家も必要だし金属器も必要だ。かりに三内丸山遺跡を都市だとしても、それ以外の文明の要素を縄文時代は欠いているのではないか。それを縄文文明というのはけしからんというおしかりを受けるかも知れない。
  …
 しかし、縄文時代の社会は、自然と共生するというこれまでの文明にはなかったもう一つのすばらしい文明原理を持っていた。1万年以上にわたって縄文時代の社会でつちかわれた自然との共生・循環・平等主義といった文明原理こそが、地球環境の危機の時代に直面した現代人が求めているものなのである。「縄文文明の発見」とは、地球環境の危機に直面した現代人が生き残るための新たな文明の発見でもあるのである。国家や文字そして金属器の発生に文明の誕生をもとめる文明概念では、二〇世紀後半の近代工業技術文明の危機に活路をみつけだすことができないのである。
  …
 日本列島固有の海洋的な森と海の風土に適応した永続的・普遍的な生活様式を確立した縄文文化は、まさに日本文明の原点であり、縄文文明とよぶことができるものなのである。」(P248〜P249)

○「王権誕生」寺沢薫著(「日本の歴史02」講談社 2000年)
「縄文時代に戦いはあったか
  ・・・ はたして、弥生時代に戦争が始まったと決めつけてよいのだろうか。今まで発見された縄文人骨約五千体のうち、殺傷された縄文人の遺骨はわずかに十五体。それらはいずれも成人男性で、石鏃や骨角器が骨に突き刺さっているから、戦いの犠牲者とみてよいだろう。だが、弥生人骨約四千体のうちの百五十体が犠牲者であった弥生時代に比べれば、縄文時代の殺し合いなどたかが知れたものということになる。
 一方、殺戮された縄文人について、石鏃の嵌入角度の検討などから、狩猟中の不慮の事故や手術で頭蓋に穴を空ける穿顱(せんろ)術だとみる考えもある。『自然の驚異の前に、日々協力して立ち向かっていかないとたちゆかない微力な縄文人。家犬でさえ食べずに丁寧に葬った心やさしい縄文人。そんな彼らが殺し合ったりするはずはない」というのが縄文平和主義者、後藤和民氏の主張だ。」(233頁) 

○「奇跡の日本史『花づな列島』の恵みを言祝ぐ」増田悦佐著(PHP研修所 2010年)
「日本以外のほとんどの文明圏では、どちらにしてもあまりありがたくない二者択一を余儀なくされていたわけだ。血みどろの殺し合いによって少なくとも勝利者側には文化・文明の継続性を保つリスク分散型の文明圏か、あまり大規模な皆殺し戦争などにはならない農耕に特化した文明で、農耕に適さない気象条件が続くと担い手が跡かたもなく消えてしまう文明か、という選択だ。
その点で、日本は特異な発展を遂げた。まず、ユーラシア大陸一体に偏在し朝鮮半島にもそんざいしていたことが確認されている豊穣の象徴としての角杯がない。日本で「農作物の恵みと家畜の恵み」に似たような概念といえば、海産物を示す海の幸と、実際には森林の恵みだけではなく農産物を示すことも多い山の幸が揃っていることだろう。
 この差は、ささいなようでじつは非常に大きい。どんないシケが続いても、漁民が陸地で漁をすることはないし、どんなに凶作が続いても農民が海で田畑を耕すこともない。相手の縄張りに押し入って、血みどろの殲滅戦争をする意味がないのだ。だからこそ、日本列島に関する限り、農耕民と遊牧民が生死を懸けて争った形跡もないわけだ。
 どのくらい見事にそうした闘争の形跡が欠けているかというと、縄文時代の大集落としえよくしられている三内丸山遺跡は、当時の人間が地球上で造っていた集落の中では、世界的な大都市と言ってのいいくらい人口密度の高い集落だった。その三内丸山遺跡に、計画的に配置した住所跡はあるが、武器らしいものは一切発掘されていないし、遺跡全体が城壁で囲われていた形跡もない。
 この事実が、城壁に囲われていない集落はどんなに大きくても「都市」ではないという歴史観がしみついているヨーロッパの学者たちにとっては、「都市未満」の大集落と呼ぶ根拠とされたりする。
 我々日本人は、大都市に相当する規模の人口が城壁もなく平和に暮らしていたとすれば、それはまちがいなく大都市だと思う。だが、農耕民と牧畜民のあいだで血みどろの殲滅戦をしなければ、城壁で囲まれた都市も育たず、文明が発展するきっかけもなかっただろうというのが、ヨーロッパ的な歴史観なのだ。」(69頁〜71頁)

○「古代日本ピラミッドの謎」鈴木旭編(新人物往来社 1993年)
 「日本を代表する神社のルーツを探って行くと、悉くピラミッドと巨石文化遺跡に行き当たる他、必ず巨石文化遺跡に刻まれたペトログラフが検出されるのである。ここで具体的な例証を挙げるまでもなく、日本国中、古式懐かしい神社の周辺を探査すれば、必ず神社の原形を発見することができるのは偶然ではない。それは、神社の形式を備える前の原始信仰、すなわち、縄文神道とも言うべきピラミッド信仰があったのだ。

 いま、われわれがクロマンタで見る本宮神社の信仰形態は、その縄文神道、すなわち、ピラミッド信仰の名残を原始的な形でいまに伝える名残である。日本文化を象徴する神社とは、後世の人々が何らかの意図を以て縄文人のピラミッド信仰を抹殺し、破壊した跡を隠すために存在しており、日本古来の信仰形態を換骨奪胎して継承している形式と見なして差し支えないように思われる。……

 ところで、日本列島におけるピラミッドは孤立した現象ではない。すでに冒頭において述べている通り、日本環太平洋学会が「太平洋を取り囲む日本、メソアメリカ、オセアニア、インドシナ半島、韓国などの環太平洋ベルト地帯に共通する文化的構造物」として指摘しており、その源流が日本にあるのではないか、という仮説を唱えて調査活動を継続していることを明らかにした。それはそれで調査を重ね、立証されて行くことになるだろうが、別の方面からも立証作業が進む。

 これは記憶されている方も多いであろうが、1965年のこと、スミソニアン研究所(アメリカ)のクリフォード・エバンズ夫妻が「縄文人の太平洋横断説」を発表して話題になったことがある。その根拠となったのは、1961年、エクアドルの考古学者エミリオ・エストラーが、エクアドルのグアヤキル湾の近くにあるバルディビア遺跡で発見した土器であった。その土器の文様が日本の縄文土器の文様と似ている、という見解を発表したのであった。これはセンセーショナルな話題になったが、日本の考古学者たちは「偶然の一致」として取り合わなかった。

 もちろん、それは詳しく調査検討されない限り、何とも言えないのは自明のことであるが、その可能性までも否定することはできない。と言うのは、「縄文人の太平洋横断説」を主張しているのはエヴァンス夫妻だけではないからだ。ハーバード大學のゴートン・R・ウィリー教授とジェレミー・E・サブロフ教授も「紀元前3000年頃、縄文フィッシャーメン(海人族の意味)が南米大陸に達している」と、その著書『アメリカ考古学史』の中で断言している。

 同じようなことは、考古学界の世界的権威として知られるエドヴィン・ドーランJr 教授(テキサスA&M大学)も、「太平洋の中へ不注意に押し流された日本人の小舟は、確認できている回数だけでも六十回はあり、その内、少なくとも六回はアラスカ南部のシトカとコロンビア川の間のアメリカ海岸に到着し、他の六回は、あるいはメキシコ海岸に打ち上げられ、あるいは、その沖合で発見されている」と述べている。日本の縄文人に”大航海時代”があったことを主張しているのである。こうした事実は何を意味するだろうか。
……
 こうなると、縄文時代人たちは、現代人が想像する以上に自由自在に海を往来し、世界各地を移動していたことは明らかであり、どこへ行ったとしても少しも不思議ではなかったのだ。縄文人の行動範囲を日本列島内部に制限するのは誤りであり、広く地球規模において見るのが、むしろ自然の摂理に適った見方ではないだろうか。
……
 縄文人は、現代人が想像する以上に壮大な宇宙観を持ち、地勢観を身に付けていた。 それはさまざまな形で論証されつつある。…重要なポイントになると思われるのが、すでに述べた三つの視点である。第一は、ピラミッドを中心とする縄文社会の立体的考察とシステムの解明にあり、第二は、神社神道の源流を探って行くと必ず突き当たるピラミッド信仰と巨石文化遺跡を究明していくこと。そして、第三には、縄文文化の世界史的広がりを世界各地の古代文化との交流と連鎖、伝播経路お解明を通して追求していくことである。その結果、何があきらかになってくるか、それはまだ分からない。」(202頁〜205頁)

○「旧皇族が語る天皇の日本史」竹田恒泰著(PHP新書 2008年)
 世界最古の土器「縄文土器」
 かつて、日本の縄文文化は人類史において未熟な文化と考えられていた。だが、青森県の三内丸山遺跡をはじめとする近年の発掘調査の結果により、縄文文化は創造以上に高度な文化をもっていたことが判明し、縄文観を根本から見直されなければならなくなった。エジプト・メソポタミア・インダス・中国黄河を四大文明と呼ぶが、日本文明をそれらに並ぶ文明として位置づけなくてはならない可能性も出てきたのだ。
 縄文文明は、日本に土器が生まれてから、農耕を生活の軸とする弥生時代に移行するまでの時代である。よって、土器が出現するときが縄文時代の始まり、また農耕が始まるときが縄文時代の終わりと捉えられてきた。ところが日本最古の土器の生まれた時期が近年大幅に上方修正されたことで、縄文時代の始まりが何千年も遡ることになる。縄文人がすでにコメをつくっていたこともほぼ確実となり、弥生時代の始まりを単に「稲作の開始」と定義することができなくなりつつある。
 日本最古の土器は青森県の大平山元T遺跡から出土した。土器に付着した炭水化物などを試料に行ったAMS法炭素測定年代のサンゴによる暦年代較正値が約一・七万年前(一万六六六〇プラスマイナス一五〇年前)であった。この測定の結果、土器の出現がこれまで考えられていた時期より約四千年遡ったことになる。そしてこの土器は世界最古の土器である。
 縄文土器は一万五千年以上の長いあいだつくり続けられ、その文様も人類史上比類のない豊富なものであった。弥生時代から現在までは二千数百年しか経過していないので、土器のつくりはじめを日本史のはじめとするなら、日本史の大半、およそ八割以上は縄文時代だったことになる。

 縄文都市・三内丸山遺跡
 縄文人は五千年前からヒョウタンやエゴマなどを栽培し、縄文時代後期後半ごろには瀬戸内海から九州北部にかけての地域でゴメ栽培していたことがほぼ確実とされる。
 縄文人像を大きく変えさせた近年の発掘は、一九九二年から発掘が始まった三内丸山遺跡であろう。三内丸山の縄文人は、クリの木を計画的に植林し、下草を刈るなどして念入りに管理していたことがわかっている。
 三内丸山遺跡はいまから五千九百前ごろから四千三百年前ごろまで、およそ千六百年間営まれた。広さ約三五万ヘクタールに及ぶ縄文時代中期の巨大遺跡である。江戸(東京)は徳川家康が城を築いてから約四〇〇年、京都は桓武天皇が線としてから約千二百年であることを比べると、三内丸山が太古の昔に千六百年ものあいだ営まれたというのは尋常ではない。
 しかも、住居の跡は全体で三千種以上になると推定される。これだけの規模になると、もはや「縄文都市」といっても差し支えなかろう。
 三内丸山遺跡は、ただ一カ所に多くの人がすんでいただけではない。遠方との交易もさかんで、糸魚川のヒスイ、岩手の琥珀、秋田のアスファルトなどが出土している。また、遺跡には大規模な墓地が造営され、故人を丁寧に葬る文化があったことを思わせる。
 このように、縄文人は採取経済を基盤とする社会としては、稀に見る高度な社会を構築していたことが明らかになってきた。日本列島の豊かさが人の心の豊かさを育み、大自然を正しく畏れ、正しく利用する独特の世界観がつくりあげた。縄文人の世界観こそ日本人の世界観の土台となるものである。
 縄文人の営みからは万物を神と捉えるアニミズムの原点を見出すことができるだけでなく、縄文人が墓を造営した様子からは、先祖崇拝の原型がうかがえる。縄文人の自然崇拝と先祖崇拝が融合したものが、弥生時代にさらに発展し、現在の神道につながるのだ。したがって、記紀の世界観は縄文時代にすでに土台ができあがっていたといえる。
 そして世界最古の土器をつくり、集団の結果と人々の平等性を重視した高度な社会を築いた縄文文化こそ、「日本文明」と呼ぶにふさわしい。」(57頁〜60頁) 

平成19年01月28日作成 平成26年06月06日最終更新  第016話