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 日本の旧石器時代の扉は、在野の考古学愛好家から研究者に脱皮を果たした、相澤忠洋(1926〜1989)によって開かれました。 相沢忠洋は、群馬県笠懸町の岩宿遺跡の切り通し(関東ローム層とよ
「赤土への執念」相澤忠洋著(世界未来社 平成3年)/相澤忠洋により昭和24年発見された黒曜石槍先型石器(2万5千年前) 
ばれる火山灰 土が露出する崖)から、黒曜石の細石器様の石剥片を昭和21年(1946年)に発見しました。3年後の昭和24年(1949年)、学術調査がおこなわれ、日本にも旧石器時代が存在することが確認されました。黒曜石は、現在でもメスとして外国では手術に使われることがあるほど鋭利なガラス状の石器です。

  それまでは、日本列島には、1万年以前には、人類は住んでいなかったとされていました。岩宿遺跡で発見された打製石器の中には、先端部分が磨かれた局部磨製石器であったこともあり、発掘後も執拗に縄文時代の石器であると主張も行われ、日本に旧石器時代があったということは、長い間定着しませんでした。
日本の旧石器文化は、世界最古の磨製石器文化であったことが理解されませんでした。

旧石器時代とは、人類が打製石器(旧石器)を作り始めたとされる250万年前から、磨製石器(新石器)を作り始めた1万2000年前までを一般に指し、旧石器の形状により三つの時代に別けられる。
 
 
1万2000年前から5万年程前の後期旧石器時代は、新人類による旧石器。5万年前から20万年前の中期旧石器時代は、新人類と旧人類による旧石器。20万年前以前は、前期旧石器時代
といい旧人、原人、ホモ=ハビリスによる旧石器であるとされています。前期・中期・後期と時代が新しくなるほど、石器も小さくなり、多様な形態をもつこととなります。

 1万年以前は、火山の噴火期にあたるので、日本には人は住めなかったはずであるというのです。日本列島が大陸から切り離される直前に日本に新人類が獣をおって移動して来たとされていました。切り離されたのは、今から1万2000年前のことでした。
岩宿遺跡の発掘によって、3万年前までの、後期旧石器時代の存在が確認されました。相沢忠洋とそれを支援した芹沢長介(1919年〜2006年)などによれば、10万年前くらいまでの中期旧石器までが、確認されたと主張されていますが、現在定説となっているのは、日本の石器時代は、後期旧石器時代にとどまるということであす。つまり、5万年以前は、日本列島には、人類が生存していなかったとの主張です。しかし、近年においては、島根県出雲市の砂原遺跡で、約12万年前の日本最古とみられる旧石器36点が見つかっています。即ち、日本列島では少なくとも12万年前から、先住民が暮らしていたのです。
  相澤忠洋が病魔に倒れ、活動を停止した昭和55年頃から、ねつ造が発覚する平成12年11月まで約20年間、考古学愛好家のF.Sによる旧石器のねつ造事件が宮城県を中心に起きました。F.Sのかかわった発掘によって、日本の旧石器時代はどんどんさかのぼり、平成12年(2000年)には、70万年前の石器の埋蔵遺跡が見つかったと新聞報道ではされていました。高校の教科書にも記載されていました。
発掘に係わったすべての遺跡で石器のねつ造が行われ、専門の考古学者の多くが見抜けませんでした。日本の旧石器は、火山灰の中に包含されており、酸性土のため、人骨や植物などが残らないため、石器の含まれる地層のみで時代を判断せざるを得なかったためと、日本の多くの考古学者が中期旧石器・前期旧石器を見分ける力をもっていなかったためです。
昭和63年(1988年)8月、島根県松江市にある湘南学園高校の当時の岡崎功理事長の紹介で、郷土史家の恩田清先生とお会いして、先生が発見さ れた出雲で出土する旧石器をご自宅で見せていただきました。ガラスやメノウで出来ている石器で、一つ一つくるんであった新聞紙から出されて、これは100万年前から、これは250万年前の地層から出土したと目を輝かせておっしゃっておられました。
新聞記者への情報提供では認められないので、時代を新しく伝えておいたといっておられたのが印象的でした。また、偽石器と本物の石器の違いなどもそれぞれに即して教えていただきました。工事現場や宍道湖の干拓などの現場に出かけられて見つけられるということであり、正式発掘ではないので、認められないのでしょう。
 
しかし、出雲の地で正式な発掘が開始され恩田清先生の発見が実証されれば、日本は人類発祥の地ということにまでつながる可能性のある大発見です。大きさからすれば、あるいは日本に、聖書の創世記第6章4節に記された、巨人族の時代があったことにもなります。人類発祥の地ともされるムー大陸伝説も現実味をおびてきます。 
旧石器の発掘の今日までの歩みをみると、アマチュア考古学愛好家の出土情報と、それを裏付ける学問的な発掘のよって推進されてきたことがうかがわれます。
今までの学問の枠組みがあり、恩田清先生の主張が、現状ではなかなかみとめられないであろうことは、「岩宿の発見」(昭和42年)「赤土への執念」(昭和55年/再版平成3年)に自ら記した相澤忠洋の苦難の生涯を見れば容易に想像できます。相澤忠洋のような「志」をもった考古学者の出現を望みます。

参考図書

○「赤土への執念」相澤忠洋著(世界未来社刊 平成3年)
○「岩宿の発見」相沢忠洋著(講談社文庫 1973年)
○「発掘捏造」毎日新聞旧石器遺跡取材班(2001年)

○恩田清先生発掘の旧石器 (昭和63年8月18日撮影) 写真をクリックすれば拡大します。

平成19年01月19日作成 平成25年10月23日最終更新  第015話