本文へスキップ
 
 天皇即位の時に掲げられる万歳旗/5匹の魚と32の波が描がれている
 日本国憲法の第1条から第8条は天皇についての項目であり、第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。 ところが、この天皇について、高校の歴史教育ではあまり敬意がはらわれていない。やはり、日本国民として、天皇について公平な目で理解しておく必要があると思うがいかがだろうか。 720年に日本書紀が書かれた。天皇家の先祖である天武天皇が、自分の即位を正当化するためにかかれたものである。しかし、その天皇家が今に至るまで継続しているのである。このことのみを考えても日本の伝統というものが見えてくる。世界に誇れる伝統と文化の国である。

 京都の「とらや」は、後陽成天皇の御在位中 (1586〜1611) から天皇に羊羹をおさめてきた。法隆寺は世界最古の木造建築物であり、1300年以上前から現役のお寺である。和歌(短歌)を作る伝統は古事記の書かれた時代以前より現在につづいている。「能楽」を大成した世阿弥の子孫が、未だに家元として能楽を演じている。茶道にしても千利休の子孫が家元として400年伝統を受け継いでいる。この文化と伝統のかおりを大切にしてゆきたいと思うがいかがだろうか。このような伝統と文化の薫りに満ちた国が他にあったら教えて欲しい。 

1928年に田中智学があらわした「日本とは如何なる国ぞ」にある、ドイツのローレンツ・フォン・シュタイン博士の言葉を紹介する。一般にはアインシュタインの言葉とされているが間違いのようである。

 「近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違った何者かがなくてはならない。果たせるかな、この国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて、一系の天皇を戴いてきた、という比類ない国体を有することが、それこそ今日の日本をあらしめたのである。
私はいつもこの広い世界のどこか一カ所ぐらいは、このように尊い国がなくてはならないと考えていた。なぜらならば、世界は進むだけ進んで、その間は、幾度も戦争を繰り返したが、最後には闘争に疲れるときがくるであろう。このとき人間は、必ず真の平和を求めて世界の盟主を上げねばならぬ時がくるに違いない。 その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ、尊い家柄でなくてはならい。世界の文化は、アジアに始まって、アジアに帰る。
 それはアジアの高峯である日本に立ち戻らねばならない。われわれは神に感謝する。神がわれわれ人類に日本という国を造っておいてくれたことを」(引用は岩田明の著作による)

次に年代の数え方についてであるが、今年は平成18年である。西暦では2006年。平成をさけて西暦を意図的に使う人が多い。数えやすいということもある。しかし、西暦の意味を知っているだろうか。
平成18年は、AD2006年にあたるが、キリストが誕生して2006年という意味である。西暦(AD)はAnno Domini(「主の年に」の意)の略である。紀元前(BC)というのは、Before Christ (キリスト誕生以前)の意味であり、キリスト教文明(西欧文明)が世界中を覆うようになってから、世界中で使用されるようになった。
イスラム教にはイスラム教の紀元があり、仏教国には仏教紀元がある。それぞれの国の数え方で数えている。西暦にこだわらなくても元号でよいのではないかと思うがいかがだろうか。
 明治になってから、天皇家の初代とされる神武天皇の即位したとされる年から数える皇紀(西暦の紀元前660年を紀元とする)というのが用いられた時代があったことを付け加えておく。

参考図書

○「私はなぜ「中国」を捨てたか」石平著(2009年 ワック株式会社)
「皇室をもつ日本人の僥倖
 もちろん、皇室の永続性は皇室だけのためにあるのではない。
 まさに、万世一系の皇室があるからこそ、日本はわが中国がかつて経験したような「易姓革命」という名の王朝交代を必要としないのである。それゆえ日本民族は、わが中国の祖先たちが王朝交代のたびに体験しなければならなかtった、長期間の戦争と動乱と殺戮の悲運を免れているのである。
 そして、日本民族が存亡の危機に瀕した時、かけがえのない救世主としての役割を果たしてきた。日本が西欧列強の植民地になるかもしれない危機を救った明治維新は、まさに天皇の錦旗を掲げた「王政復古」であった。大東亜戦争の終戦の時、昭和天皇による詔勅一つで出口のない戦争状態が収拾され、「万世の太平」が開かれたのである。
 超越的な存在としての無私無欲の皇室を持つことは、まさに日本民族の幸運であり、日本歴史の僥倖なのであろう。
 中国人の私は羨ましい思いで日本の歴史を眺めつつ、一人の「愛日主義者」として日本の皇室の天地長久と、日本民族の永遠の繁栄を願いたい気持ちである。
 そして、今から思えば、皇室の存在を含めた素晴らしい伝統を持つこの美しい日本に来たことは、まさに私の人生にとって、最大の幸運と僥倖であった。この日本こそ、多くの心の受難を体験してきた私の魂がたどり着いた安心立命の地である。
 もし、古人に倣って「遺偈」でも書くとすれば、詩才のない私は現代の普通の日本語で、次の一言だけを言い残したい。
 「この日本に来て良かった!」」(p236~p237) 

○「日本史から見た日本人・古代編「日本らしさ」の源流」 渡辺昇一著(平成元年 祥伝社)

 『ニューズウィーク』1973年7月30日号)は、今の陛下(昭和天皇)を「2633年の昔から中断されたことなき一系の皇統の第124代目の天皇」と表現している。 これは神武天皇の即位が紀元前660年に行われ、その後も記紀に名前が挙がっている天皇が全部存在したという立場からの記述である。
よく知られているように、『ニューズウィーク』は日本のことには敏感な雑誌であり、日本に無知だからこんな言い方をしているのだと思ってはいけない。 同じ事を、私はドイツの雑誌でもイギリスの新聞
ルーブル博物館エジプト室/32弁の菊花紋の回りを5匹の魚が囲む 
でも読んだことがある。古代に書かれた文書というのは偽書でもないかぎり、それだけの敬意を受けるものなのである。日本の紀元は、すでに明治時代の学者が苦心して調べ上げたように、…… 辛酉の年、つまり「かのと・とり」の年に革命があることになり、三十七朝1320年が一蔀(いちぶ)で天道の反る時だということになる。 ……斉明天皇の崩御になったのが辛酉の年(西暦661年)であったので、そこから逆算して1320年前を神武紀元としたらしい。……このようにして、神武天皇の即位の年が決められたことには。ほぼ間違いないと思われる。かといって、神武天皇から継体天皇あたりまでは空虚であったわけではない。かならず初代の天皇がおられて、何代か何十代か、 伝承によって伝えられていた天皇がおられたわけである。それが二十六代だったかは知る限りではない。その数字がどの程度正しいのかは、誰にもわからない。 したがって「ニューズウィーク」は『日本書紀』のとおり伝えるより仕方がなかったわけで、これが世界的ジャーナリズムにおける通念である。われわれは、だいたい600年前後の誤差はあるかもしれない、 ということさえ認識したうえでなら、「皇紀によれば今年(昭和四十八年)は二六三三年、今上陛下は百二十四代の天皇と言われる」と言っても外国人に笑われることはない。(P68〜P69抜粋)

○「日本人と天皇」 松村剛著(1989年 PHP研究所)
「昭和天皇がマッカーサーをはじめて訪問されたとき、…昭和20年9月27日のことである。…ケーリ氏の説明によるとマッカーサーの方では天皇は命乞いに来るか、あるいは自分は島流しにされてもよいから領土を保全してほしいと頼みに来るぐらいに、推測していたそうである。
 ヨオロッパの国王たちは戦争に負けると、しばしばそのような行動をとってきた。イエナでプロイセンがナポレオンのフランス軍に大敗したあと、プロイセンの美貌の王妃ルイーゼが単身ナポレオンの許に赴き、領土保全を懇願したはなしはよくしられている。そういう前例が、マッカーサーの脳裏には明減していたのかも知れない。
 ―――だから天皇が、頼みがあるといわれたときには、ほら来たと思ったのですよ。ところが天皇は自分の一身はどなってもよいから、餓えている国民を救ってほしいとおっしゃった。それでマッカーサーは驚いて、本国に食糧を送れと申し入れたのです。食糧には動物の餌のようなものがまざっていたかも知れませんが、とくかく多数の日本人が救われたはずです。
 先帝陛下(※昭和天皇)とマッカーサーとの会見の模様は、断片的にしか伝えられていない。ヴァイニング夫人の日記にマッカーサーがこの会見について彼女にはなした内容が記載されていて、公表された日記のその部分を東京新聞(昭和六十二年十月三日付)が紹介していた。これによるとマッカーサーは最初に、「戦争責任をおとりになるのか」と質問したという。「戦争責任」は、アメリカを中心とする第二次世界大戦の戦勝国が勝手につくり上げた概念である。陛下は「その質問にこたえるまえに、私の方からはなしをしたいことがある」、といわれた。
 「私をどのようにしようともかまわない。私はそれをうけ容れる。絞首刑にされてもかまわない。」
 会見の席には外務省参事官の奥村勝蔵ひとりだけが、通訳として立会っていた。隣室に控えていた藤田尚徳侍従長は、その著書『侍従長の回想』に次のように書いている。
 「陛下とマ元帥が二人で何を語られたか、これは明らかにされていないが、後日になって外務省でまとめた御会見の模様が私のもとに届けられ、それを陛下の御覧に供した。(中略)宮内省の用箋に五枚ほどあったと思うが、陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。
 『敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。
 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうへは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』。」
 ケーリ氏のことばは、日米双方のこれらの証言とも符号する。「国家国民のためならば、自分はどうなってもよろしい」とい宸意(※天皇の意志)は、当時の首相東久邇宮稔彦王にも――木戸内大臣を介して――伝えられていた。(『東久邇日記」九月十四日の項)このころの有名な御製に、
  爆弾にたふれゆく民の上をおもい いくさとめけり身はいかならむとも
  身はいかになるともとどめけり ただたふれゆく民をおもひて
 マッカーサーの若い副官だったファウビオン・バワーズ少佐(当時)の手記と談話とが、やはり昭和六十二年十月の読売新聞に掲載された。(十月二十六日付)これによるとマッカーサーは、陛下が「戦争は私の名のもとに行われた。戦犯たちにかわって責任を取りたい」と申出られたことを、会見の数日後にパワーズに語ったという。
 明治憲法の第三条は、天皇の無答責条項である。
 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス(※べからず)」
 この箇条はオランダ憲法の第五十五条、
 「国王は、不可侵とする。大臣が責任を負うものとする」、
 あるいはベルギイ憲法の第六十三条、
 「国王は、これを侵すことができない。国王の大臣が責任を負う」、
 等々をもとにしてつくられたのだろう。同趣旨の条文は、スウェーデン、ノルウエイの憲法にもある。立憲君主国の国王は政治への介入を制限されているかわりに、多くがこの無答責条項によって守れている。
 極東軍事裁判の首席検事キーナンは、天皇を「証人として法廷に出廷させたい」と一時期思っていた。しかし天皇がもし出廷されたら、このような憲法上の条項を「自己辯解(※弁解)」に用いるようなことは一切しなかったであろう」とキーナンはのちに述懐する。…昭和天皇は、まさに「身はいかなるとも」という御覚悟で行動されていた。」(p10〜p14)
  
○「神話から歴史へ」大津透著(天皇の歴史01 講談社 2010年)
 『スメラミコト』の意味するところ
 天皇は、奈良時代には何と読まれていたかといえば、スメラミコトであった。律令法には、天子・天皇・皇帝の三つを規定するのが、天子がスメミマノミコト(おそらく皇御孫の命と同じ)と祭祀などで宣られたのを除けば、ほかはすべてスメラミコトであった。スメラミコトは「天皇」の訓というよりも、本来「天皇」という漢字の君主号と独立に成立した和語だったと考えるべきである。知っていなければ、天皇はスメラミコトとは読めない。
 スメラミコトは、スメラとミコトに分けられる。スメラは「澄む」や鏡を結びつけて王の清澄、神聖なる性質を述べた語であるとする西郷信綱氏の説が有力である。ミコトはニニギのミコトのように貴人に尊敬して付ける語なので、スメラミコトはある種の敬語の塊だということになる。
 ミコトの本来の意味は「御言」であり、奈良時代に天皇の命令はミコトノリ(詔とか勅の訓)として音声で読み上げられた。詔書は、のちには修辞をこらした中国的漢文のものもあらわれるが、『続日本紀』には奈良時代の宣命書きという一字一字の漢字で送り仮名を付した和文の詔書(宣命という)を多く載せている。
 そこでは『天皇が大命と詔りたまふ大命を聞くように』と定型的に読み上げられるが、「スメラミコトがオホミコト」とは読まず「スメラがオホミコト」と読む。スメラがオホミコトは、スメラミコトと同義であるから、スメラミコトは発された命令そのものでもある。小林敏男氏が折口信夫を引用して述べるように、天つ神の詔命を伝達する最高最貴の御言(ミコト)持ちだったらしい。
 古代日本語で法にあたる語はノリしかなく、法・規・律・式・紀などすべて訓はノリで同じである。法とは、上位のものが「宣る」最高の主体がスメラミコトつまり天皇であり、その言葉がミコトノリで古代国家の最上位の法になるのである。(p258〜p260)

○「日本史から見た日本人・古代編「日本らしさ」の源流」 渡辺昇一著(祥伝社 平成元年)
○「日本超古代王朝とシュメールの謎」 岩田 明著(日本文芸社 平成10年)
 
平成18年09月13日作成 平成29年01月30日最終更新  第003話