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日本という国名は、いつ頃から使われ始めたかというと、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇が漢字で「日本国」と名乗った時からだ言われている。7世紀末のことになる。この頃の事を記した中国の歴史書「新唐書」にも「日本」の国名が初めて出てくる。マルコ=ポーロの「東方見聞録」(「世界の記述」)にあるZipangu(ジバング)は、「日本国」の中国訛(なまり)、英語のJAPANは「日本(じっぽん)」が転化してものである。190カ国ある現在でも例をみない、1300年以上もの歴史をもつ由緒ある国名である。
  天武天皇の命により編集された公式の歴史書を「日本書紀」(720年編集)といい、漢文で書かれていた。「古事記」(712年編集)は、漢字を使用した日本語(やまとことば)で書かれている。「古事記」と「日本書記」を合わせて「記紀」という。
 「記紀」には、神代時代の日本のことが、
   
葦原(アシハラ)の中つ国・葦原の瑞穂(水穂)の国・根の国 

という名前で出てくる。大国主神の別名を「葦原醜男(しこを)の神」ともいい、「葦原の中つ国」「葦原の瑞穂(水穂)の国」は、大国主神の郷土の国を示していると言えるだろう。スサノオの尊が、天界から降りてきた国が「根の国」であった。現在の「島根県」の県名で名残がみられる。
 
なお、「神国」という言葉は、日本書紀の神功皇后の年代記[通常、天皇にのみ年代記の項があるので、神功皇后は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)天皇として即位されていたと認識していたと考えられる。実際江戸時代まで即位しているとして天皇の代数に数えていた。]を書いた項に朝鮮半島の新羅国の王が「東に神国があり、日本という…」とあるのが始めである。

  「記紀」や「万葉集」(7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂)によると日本の自称は、「やまとの国」であった。漢字では、「倭」「日本」「山跡」と書いて、「やまと」と読ませた。
ウサギを浄める大国主神(出雲大社)
ウサギを浄める大国主神(出雲大社)
 

「記紀」を引用してみると、
 「秋津島 やまとの国は 神ながら 言挙げせぬ国 …」
 「志貴島のやまとの国は 言霊の 佐(たす)くる国ぞ 真幸(まさ)くあれこそ]
とある。

万葉集には
 「神代より 言ひ伝え来(け)らく そらみつ やまとの国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)きはふ国 と 語り継ぎ 言ひ継がひけり …]

「…日の本のやまとの国の…」などとある。
 
「やまと」の国の枕詞としてでてくる「アキツ島」「シキ島」「ソラミツ」「ヒノモト」なども国名とされているが、先に示した「やまと」の例のように漢字はさまざまである。書物としては「記紀」や「万葉集」ではじめて漢字が使用された。漢字は、古来の日本語(やまとことば)の音を写したものであるので、色々な漢字がつかわれているのである。
 
中国は、3世紀の日本のことを「邪馬台国」と書き、その女王を「卑弥呼」と書いた。「邪(よこしま)な馬のような国」、「卑しい女性」このような字を書いて、日本をさげすんでいるのである。中身もでたらめである。当然そのような国は日本にはない。漢字にあてるなら「大和国」や「日皇女」を充てるが良いのではないか。中国という呼称は自称で、「世界の中心の華の国」という意味である。これを、「支那(シナ)」と呼ぶことは、現在していない。「枝の国」という意味になるからである。「支那(シナ)」という呼称は、中国の僧自身が訳した仏教の経典による中国をさす言葉である。「CHINA」は、この「シナ」または、「秦」に由来する英語であると云われている。 

古来、日本の事を「言霊の幸ふ国」とよび、言葉を大切にしてきた。言葉には、魂がやどっていることは事実である。「言葉ひとつ」で、「人を殺すことも生かす事もできる」ことを日々実感していることからもわかるであろう。言葉には、このような力があるので、言霊といって古代の人は大切にした。つまり、言霊は、種まきの種と同じで、言霊の発し方如何によって自分の運命も変わり、他人様の運命も変えて行く大きな力がある。漢字も同様である。漢字を大切にしたい。「日本」の品格を落とす、「邪馬台国」や「卑弥呼」などの漢字を使う必要はない。語るなら「ヤマト国」「ヒミコ」でよいのではないか。
  さて、「日本」という国名は、「日の本のやまとの国」の「日の本(ヒノモト)」つまり、「日の本つ国」が由来であろうと云われているが、その先がたどれていない。「やまとの国」の「やまと」については、日本書紀を、時の政府が解説した講義録「弘仁私記」(812年)や「延喜私記」(904年)を引用した「釈日本紀」などには、「天地が分かれたとき、土地が湿っていたので、人々が山に住み、山に止まったので『ヤマト(山跡・山止)』といった」という意味のことが書かれてある。

参考図書

○「神話から歴史へ」大津透著(天皇の歴史01 講談社 2010年)
「天武三年(六七四)三月に対馬が銀を献上した記事に「凡そ銀の倭国(やまとのくに)に有ることは、初めてこの時出(み)えたり」とあり、このとき日本ではなく倭国だった。制度的に定められたのは、浄御原令(※689年)か大宝律令(※701年)であろうが、吉田孝氏は前者と推測している。
 大宝の遣唐使(※702年)は、日本国号を唐に承認してもらう重大な任務をおびていた。遣唐執節使となった直大弐民部尚書(民部卿)粟田真人は、『旧唐書』に「真人好みて経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と特筆され、「則天、これを麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、本国に放還す」と、則天武后は長安大明宮の麟徳殿で彼を宴したとある。真人は正史に特筆されるほど立派な立ち居振る舞いで、武后に気に入られたことにより、国号変更も認められたのだろう。
 ・・・
 大宝の遣唐使で入唐した僧弁正の「唐にありて本郷を憶ふ」という詩に(『懐風藻』二七番)、

 日辺、日本を瞻(み)る  雲裏(うんり)。雲端(うんたん)を望む
 (日の出るあたりに日本があると思って仰ぎ見るが、雲がたなびいているのを見るばかり)

とある。「日本」の意味が「日辺」であることがわかり、これは長安で詠んでいるので、「日本」がまさに唐からみた国号であることを証明している。実はことときの遣唐使はもう一人「日本」を用いて和歌を詠んでいる。遣唐使四等官の少録だった山上憶良の「大唐に在る時に本郷を憶ひて作る歌」である。

 いざ子ども  早く日本(やまと)へ  大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
 (さあ皆のもの〈「子ども」は目下の者をさす〉。早く日本へ帰ろう。大伴の御津〈難波の港〉の浜松が待ちわびているだろう)

 最初の二句の原文(万葉仮名)は「去来子等 早日本辺」だが、国文学者はこれを「早く大和へ」と書き下すことが多い。しかし憶良は「日本」という字を使うことこそ感慨があったはずで、仮に「やまと」とよむにしても表記は「日本」とすべきで、「にほんへ」と読むのが憶良の真意だったかもしれない。これを「大和」と書いてしまっては「憶良がかわいそうだ」というのが吉田氏の意見である。遣唐使でわたった二人が「日本」を使って詩と和歌を唐で作ったことは、彼らの使命を暗示する。」(356p〜358p)  

「日本の国号」岩崎小弥太著(吉川弘文館 昭和45年)
「古事記」(上)(中)(下) 全訳注 次田真幸 (講談社学術文庫 1977年 1980年 1884年)
「万葉集一〜五」青木・井手・伊藤・清水・橋本 校注(新潮日本古典集成 昭和51年〜59年)
「日本書紀」上下 宇治田孟訳(創芸出版 1986年)
  
平成18年11月18日作成 平成23年1月31日最終更新  第009話