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 天孫降臨より三代の歳月が経過しました。鹿児島の高千穂を出立して奈良の大和国に向かった神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の一行は、難波津を超えて、当時の河内湖に入り、青雲の白肩津に上陸し、生駒山の麓の孔舎衛坂(くさかのさか)の戦いで初めて本格的な抵抗を受けます。
 紀元前660年の神武東征の頃の大阪は、現在の大阪城の北の当たりの難波津を出入り口とする河内湾が生駒山の麓まで広がっていました。今の地形では想像できませんが、青雲の白肩津は、現在の枚方(ひらかた)に当たります。ここまで、船で入れたのです。そして孔舎衛坂(くさかのさか)の戦いの「くさか」は、現在の東大阪市の日下(くさか)になります。古代史においては、漢字よりも音が大切です。
 ここで伊波礼毘古命の兄である五瀬命が矢傷を負い、やがて命を失う激戦となります。
 神武天皇の東征に対して、抵抗したのは登美能那賀泥毘古命(トミノナガスネヒコノミコト・登美毘古命・長髄彦命)です。登美毘古命は、生駒山を中心に奈良県側の鳥見(登美)の白庭山を本拠地に大きな勢力を誇っていました。
 登美毘古命との戦いの敗北によって、伊波礼毘古命の東征軍は、生駒山の山越を諦めて、迂回戦術を取ります。茅渟の海(大阪湾)を南下し、紀国(和歌山県)の熊野の山越えをして大和国(奈良県)に入ろうとします。
 ここでも苦戦します。この苦戦を打開したのは、布都御魂の剣でした。出雲での国譲りの時に建御雷神が所持していた布都御魂(ふつのみたま)の剣〈出雲の国譲りの交渉の時の十掬剣(とつかのつるぎ)〉が建御雷神の代わりに「高天原」から降されて大活躍します。実際には、布都御魂の剣に象徴される建御雷命の子孫の率いる軍勢が、実在の「高天原」(常陸国の鹿島)から派遣されて加勢したと考えるのが筋でしょう。伊波礼毘古命の東征軍は、様々な抵抗をはねのけ、最後に再び登美毘古命の軍と対峙します。
 登美毘古命は、伊波礼毘古命に使いを送って、こう述べました.
「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒速日命といいます。この人が我が妹の三炊屋媛をめとって子ができました。名を可美真手命といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。」(日本書紀、宇治谷孟の訳)
 登美毘古命は、饒速日命の所持していた天神の証拠を伊波礼毘古命に示しました。 伊波礼毘古命は、この証拠を認めました。しかし、登美毘古命が仕えていた饒速日命が登美毘古命を征伐して、伊波礼毘古命に帰順します。そして、 饒速日命の子の 可美真手命が物部氏の祖として、伊波礼毘古命に仕えます。
 
 ここで、出雲での国譲りの物語と比較しますと饒速日命と天若日子との類似性が見られます。天若日子は、天神のおられる「高天原」から派遣されて、大国主命の娘の下照姫命と結婚します。天若日子は、「高天原」から派遣された証拠の天鹿児弓、天羽羽矢を持っていました。
 一方、饒速日命もまた、「高天原」から派遣された証拠の天の羽羽矢と歩靫(かちゆき・徒歩で弓を射るときに使う矢を携帯する容器)を持っていました。
 記紀には、饒速日命も「高天原」から派遣されたと記されていいます。詳しく見ると、饒速日命は河内国河上哮ヶ峯に天の磐船で降臨したとされています。大阪府交野市の磐船神社の所在地です。
 生駒山地の北側の山岳地帯に位置しています。神武東征の頃は、河内湾が生駒山地のそばまで、広がっていましたので、磐船神社のそばまで、船で入れたと考えられます。
 天の磐船の「天(あめ)」は「海(あめ・あま)」と置き換えた方が自然です。磐船は、磐のように頑丈な軍船と考えれば、実在の「高天原」から船で降臨(上陸)したと考えることができます。

 出雲では、国譲りをした大国主命の直系の子孫は、「富」家を今でも名乗っています。

 伊波礼毘古命が最後に戦った登美能那賀泥毘古命の「登美」は、「富」家を表しているとすると、物語はすっきりします。登美能那賀泥毘古命は、「富」家の当主則ち大国主命又は、三輪山の麓の狭井川付近の出雲屋敷あたりに居を構えていたとされる事代主命の事だと考えて良いかと思います。建御名方命のことかもしれません。百歩譲っても大国主命の直系に近い一族だったのでしょう。
 建御名方命の別名を建御名方富命、南方刀美神といい、ここでも、「トミ」が入っています。配偶者は八坂刀売命(やさかのとめのみこと)。建御名方命の子孫は、諏訪氏(すわし)です。神氏(みわし)とも称したので、大和の大神氏(みわし・三輪氏)を出自とする説もあり、大神神社との関連が指摘されています。大神氏は、大物主命(大国主命)の5世孫とも事代主命の7世孫ともされている大田田根子(おおたたねこ)命を始祖としています。
 登美毘古命の邇芸速日命に嫁いだ妹の名は、古事記では登美夜毘売(トミヤビメ)。日本書紀では、三炊屋媛の別名として鳥見屋媛(トミヤヒメ)と示されています。登美能那賀泥毘古命は「トミ彦命」、妹は「トミヤ媛」なのです。
 
 登美毘古命は、大国主命又は直系の一族であったという類推が国譲り大和説のポイントです。

 そうすると、天若日子(日本書紀に言う「天稚彦」)と饒速日命(古事記に言う「邇芸速日命」) とが重なるのです。死ぬか仕えるかの差異も交えながら、同じ物語を繰り返していると考えて良いかと思います。
 どちらも大国主命の娘を妻としています。また、天神の印の「天羽羽矢」を持っています。天若日子は、天神の弓を、邇芸速日命は、天神の歩靫(矢をいれる容器)を天神の印として示しました。違いは無いと見なしてよいかと思います。
 大国主命の出雲王国は、日本各地の一宮の御祭神から類推すると、日本の中央部に膨大な領土を保持する大国だったと考えられます。出雲を中心とする山陰、山陽地方(中国地方)、 奈良、大阪にまたがる生駒山の山麓を中心とする一帯。そして、北陸地方や信濃地方に勢力を広げていたと考えられます。大国主命の王国を支えていたのは、継嗣の事代主命と事代主命の弟の建御名方命です。信濃国諏訪大社の御祭神は、建御名方神とされています。母は、高志国(越の国=石川県、富山県、新潟県)の沼河比売ですので、建御名方命は、国譲りで建御雷命との力比べに破れて、諏訪に逃げて来たのではなく、大国主命の王国の中で北陸・信濃方面を担当していた王子ではないかと推定することができます。

 三輪山の麓にある、大国主命の荒魂(アラミタマ)を御祭神とする狭井神社の北側には狭井川が流れており、出雲屋敷の地名も残っています。この付近が、神武天皇の皇后となられた媛蹈鞴五十鈴川姫命(古事記によると「伊須気余理比売姫命」)の父である事代主命の屋敷跡であるとされます。事代主命は、皇太子兼近畿地方担当の王子だったのかもしれません。
 三輪山を御神体とする大神神社(みわじんじゃ)の御祭神は、大物主命であり、大国主命の和魂(ニギミタマ)であるとされています。三輪山と登美毘古命の本拠地である白庭山は同一勢力圏と考えて良いほどの距離にあります。
 神武東征の頃の日本の中央部では、大国主命の王国が栄えておりました。神倭伊波礼毘古命率いる元々鹿島の「高天原」を出自とする王国が「出雲」王国の国譲りを受けて成立したと考えると、神武天皇の皇后が事代主命の娘であったことが理解できます。それだけではなく、大国主命の王国の系譜は、二代天皇、三代天皇の皇后としても受け継がれてゆきました。
 神武天皇と媛蹈鞴五十鈴川姫命の間に生まれたのが神倭朝第二代綏靖天皇で、皇后は、媛蹈鞴五十鈴川姫命の妹である五十鈴依媛命です。綏靖天皇と五十鈴依媛命の間に生まれた第三代安寧天皇の皇后は、渟名底仲媛命といい、事代主命の孫の鴨王の娘ということです。
 少なくとも三代に渡り、出雲王国の継承予定者の事代主命の娘と孫が皇后の地位についているということは、神武天皇の「高天原」王国と大国主命の「出雲」王国は、ほぼ対等合併だったのではないでしょうか。
 しかも、繰り返しですが、「高天原」王国の元々の中心は、天上界ではなく、地上の「高天原」であったのではないでしょうか。地上の「高天原」王国の中心は、建御雷命(武甕槌命) の祭られている鹿島神宮のあたりと考える合理性があります。「高天原」から国譲りに派遣された天若日子の持っていた弓が、「天鹿児弓(あめのかごゆみ)」というのも、何やら「鹿島神宮」や、鹿島の元の名であった香島(かぐしま)を示しているようで暗示的ではあります。
 古事記と日本書紀は、神武建国の歴史と編纂当時隠したかったことがミックスされた、全く事実の歴史でもなく、全くデタラメの歴史でもないというのが、今回の考察のベースを成しています。

参考図書

○「全訳ー現代文 日本書紀 上巻」宇治谷 孟著(1986年 創芸出版)
○「日本書紀 上」井上光貞監訳(昭和62年 中央公論社)
○「古事記」池澤夏樹訳(2014年 河出書房新社 日本文学全集01所収)
○「大神神社」大神神社編中山和敬著(2018年 学生社)
○「謎の出雲帝国」吉田太洋著(1980年 徳間書店)
  吉田氏が取材した、出雲王朝の直系の子孫である富當雄(とみ・まさお)氏が伝える口伝の記録が記されている。そのなかから、特に興味深いと感じたことのいくつかを抜粋してみます。
  「出雲大社の東、宇伽山のふもとにある出雲井神社…ここは富家の遠つ神祖、久那戸大神が祀られている。…出雲王朝の始祖なのである。」(p14)
  「簸川郡富村に、富家の先祖を祀った富神社がある。…うちの紋章は、亀甲の中にホコが2本、交差したものであったのです。」P17)
  「諏訪神タテミナカタの正式名はタテミナカタトミノ命であり、」(p71)
  「一般に天ノホヒの十四世の孫とされるノミノ宿禰の本名はトミノ宿禰…」(p106)

令和3年5月14日作成     第161話