本文へスキップ

高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

46.反日のアメリカについて

 歴史認識の問題 その8」は一貫した「反日のアメリカについて」です。

 アメリカの歴史は、1607年のバージニア植民地に始まります。北アメリカ大陸の東部海岸に作られた13の植民地が、1776年に独立宣言を行い建国されました。 大変歴史の新しい国です。わずか400年歴史しかありません。
  はじめ、イギリスのピューリタンたちが宗教的迫害を受けて新天地として植民しました。アングロサクソン、ホワイト(白人)、プロテスタント(WASP)が建国の主流であり、キリスト教を広めようという熱意が建国の理念の一つです。

 黒人奴隷宣言が出されたのが1863年です。キング牧師などの激しい公民権運動の結果、公民権法が成立したのが1964年。東京オリンピックの年です。公民権法ではようやく選挙権や公共施設での人種差別が禁止されました。 今から約50年前まで制度的にも人種差別が残っている国でした。 1776年の独立宣言でうたわれている「一定の奪い難い天賦の権利が付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求が含まれている」というのは、白人の権利です。基本的には白人本位の人種差別を国是としていた国であることがわかります。

 さて、13州で独立したアメリカは、西部開拓を進めてゆきます。原住民であるインディアンたちから土地を奪い、虐殺をつづけながら西部海岸に達し、彼らの言うフロンティアが解消したのが1890年代のことでした。
 この間「明白な天命」(Manifest Destiny)と主張してメキシコと戦争をして土地を奪いました。
 「明白な天命」とは、アメリカは、キリスト教の文明国として北アメリカを支配する天命をもっているという主張です。フロンティアが解消した後は、さらにハワイに進出し、併合し、スペインと戦ってフィリピンを獲得しました。世界に対してキリスト教を広めることを天命としている国です。別の言葉でいえば、グローバル・スタンダードという自己中心の基準を世界基準と主張し、それでもって世界を支配することを目標としている国であるといえます。古代ローマ帝国は鷲を国章としていました。その鷲を継承するのが東西ローマ帝国でした。東ローマ帝国の継承者が、かつてのロシア帝国でした。西ローマ帝国の継承者がオーストリア帝国でした。オーストリアは双頭の鷲を国章としていました。アメリカもまた鷲を正式ではないかもしれませんが、国章としています。古代ローマ帝国と同様覇権主義の国です。そのために明治維新以来の日本は邪魔でした。中国の蒋介石の奥さんの宋美齢はキリスト教徒でした。キリスト教徒の宋美齢の存在を良しとして、蒋介石を援助して日本を叩くこともキリスト教を広める天命にかなうことだと信じていました。日中戦争の原因は、国際共産主義運動、つまりコミンテルンの策動が第一であると考えますが、親中国であるアメリカも日本を叩くための手段にしたかったための策謀も原因の一つです。実際、日本の真珠湾攻撃以前に、蒋介石の中国を援助するための航空隊であるフライング・タイガーによって日本を空爆する予定がありました。

 繰り返しますが、優秀偉大な白人が世界を支配するのが当然であり、有色人種は、劣等民族であるということを本質的に信じている国です。
 その中で日本は明治維新を成し遂げ、わずか40年で白人の軍事大国であるロシアと戦い勝利しました。さらには世界を支配する天命があると信じて東アジア進出をめざすアメリカの前に立ちはだかったのが日本でした。
 それに加えてキリスト教文明が最高であると信じてキリスト教国になることが人類の幸福のもといであると信念の中で、キリスト教を受けれないことも気に入りませんでした。多神教の国日本は悪魔に仕える国ということになります。
 インディアンの女性子供を虐殺したように、フィリピンでも大量虐殺をしました。大東亜戦争で日本の都市を無差別爆撃をしたこと、不必要な原子爆弾を2発も落としたことも、有色人種であり、アメリカの支配に屈しない日本人は虐殺してもよいという常識をもっていたことがわかります。今日、イスラム教国に対する政治介入、文化侵略と通底するものがあります。
 中国の孫文、蒋介石がキリスト教の宣教師にすり寄ったのに対して、日本はどのように布教を進めようともなびきませんでした。
 ここに、日本を敵視する根本的理由がありました。独立自尊でキリスト教を受け入れない日本の存在が許せないのです。劣等民族であるはずの黄色人種の日本人が白人のロシア帝国に勝利した1905年の日露戦争終了後、対日基本戦略であるオレンジ計画を策定し日本の抹殺を決意しました。
 1918年には、パリ講和会議で、国際連盟の常任理事国として日本は人種差別を撤廃するように訴えました。この主張を葬り去ったのがアメリカです。
 さて、オレンジ計画に基づいて着々と日本を壊滅させる戦略を練りついには、日中戦争、太平洋戦争を起こさせ日本を敗北に導きました。農業国として産業を破壊しようとしましたが、朝鮮戦争が勃発し日本の工業化を容認せざるを得なくなりましたが、TPPの交渉などに見られるように日本を支配下に置きたいという戦略は、1853年のペリー来航以来不変の国是であるように思います。そのことを踏まえて日本はアメリカと付き合うべきであると考えます。

 独断と偏見に基づき世界に自分の価値観を押し付けるアメリカ合衆国が長く続くことは歴史を振り返るとむつかしいように思います。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)とイエスは喝破しました。ここに日本の忍耐があると思います。
  
  大東亜戦争は自衛戦争でした。
 
 1941年12月8日に真珠湾攻撃によりアメリカのいう太平洋戦争が始まりました。そのとき、日本中の文化人が歓声をあげたことが記録されています。よほど積もり積もったアメリカに対する反感があったのでしょう。
 
 日本の戦争犯罪を裁く東京裁判において、パール判事は、アメリカの最後通告であるハル・ノートにふれて「これと同じ通牒を受け取った場合には、モナコ公国か、ルクセンブルグ大公国のような小国でさえも、アメリカに対して武器を手にして立ち上がったであろう」と述べました。
 
 昭和26(1951)年5月、アメリカ上院の軍事外交合同軍事委員会で日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官であったマッカーサー元帥は、「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」
と述べました。 
  要約すると日本の真珠湾攻撃からはじまる太平洋戦争は、『自衛戦争』であったと公式に述べました。
  
  真珠湾攻撃当時の首相であった東条英機の東京裁判での宣誓供述書において「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦争をしたのである。」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった。」と述べました。
日米両国の最高権力者、東京裁判の判事であったインドのパール判事が同じことを異口同音に「先の戦争を自衛戦争であった」と述べています。
  
 「自衛戦争」であるということは、「正当防衛」の戦争であるということです。しかし、このことを日本の歴史学者や、マスコミは今日に至るも一切伝えていません。
  「戦争犯罪宣伝計画」に迎合することにより断罪を免れ、あるいは協力することにより権力を握った者の後継者が権力と権威を保持するためには、真実を伝えることは自己の存立基盤を危うくするからです。逆にことさら、従軍慰安婦問題や南京大虐殺はあったと反論をしつように繰り返すマスコミや学者が後を絶ちません。しかもそのデータそのものが中国や韓国、アメリカや学者・マスコミ自身のでっち上げ捏造によるものです。
 
 8月になると終戦特集が組まれますが、必ず決まって真珠湾攻撃から映像が始まります。「窮鼠猫を噛む」という状況に追い込まれた日本の窮状を伝える番組は皆無です。アメリカの日本虐め、アメリカ国内における日本人迫害について言及することはありません。公平に歴史をつたえること、つまり太平洋戦争は自衛戦争であったということを伝えるということは、自虐史観を植え付けて日本を解体していくという目的に反する内容だからです。

 「歴史認識の問題」の項で取り上げたように、グローバルスタンダードでは、自国に有利な判断基準で歴史を伝えるというのが常識ですが、日本の歴史学者やマスコミは逆に、日本に正統性がある自衛権の行使であったという大局的事実や、時代背景、全体状況を無視して日本に不利な些細な個別事象(しかもその多くは捏造された資料・証言)を素材として歴史を組み立て日本を貶めることに一所懸命です。

 最後に、不思議な話を付け加えます。
 1万2000年以前に大西洋にはアトランティス大陸がありました。プラトンの伝える伝説です。エドガー・ケーシーによると高度な文明国家でした。一方太平洋にはムー大陸があり高度な文明を誇っていたとチャーチワードは主張しています。
 このアトランティス帝国とムー帝国は、覇権を争い、ムー帝国が原水爆兵器でアトランティス文明を滅ぼしたという物語があります。ムー大陸の子孫が残ったのが日本列島であり、一方アトランティスの子孫が多く生まれているのがアメリカ合衆国であるということです。アトランティスの人たちがムーの子孫を恨んでいる。この敵討ちがペリー来航以来150年の日米の歴史であるとするならば、
 「怨みは怨みによって鎮まらない。怨みを忘れて、怨みは鎮まる」という釈尊の言葉を教訓とすべきが、日本の姿勢であると思います。「水に流し」てこそ怨みは鎮まり、恒久平和を構築することができるのです。

参考図書

○「白い人が仕掛けた黒い罠―アジアを解放した日本兵は偉かった」髙山正之著(ワック 2011年)
 
「米国は日本を憎んだ
 
 そんなドイツ、ソ連よりももっと日本叩きに燃えていたのが米国だった。米国が日本に敵意を抱いたのはかなり昔だ。白人国家は一八八五年、ベルリン条約を結んだ。第三世界の国々は早い順に取る。海岸線を取ればその内陸もその国のものになる。いわば「切り取り御免」というふざけた条約だ。そんな時代、米国はハワイ王朝を乗っ取った。一八九三年のことだ。スムーズに併合を進めていたら日本が巡洋艦「浪速」を送ってハワイ乗っ取りに抗議した。艦長は東郷平八郎だった。勝手に他人の国を取るなという言い分は正論だ。ちっぽけな黄色い国に抗議され、ハワイ併合は何年間か延期せざるを得なかった。米国は日本を心底憎んだ。
 悪いことにその騒ぎの翌年、日本は支那と戦争して勝った。
 日本はその賠償金で大型戦艦を二隻買い込む。海軍次官だったセオドア・ルーズベルトはアルフレット・ハマンに書き送っている。「その二隻の戦艦が日本につく前にハワイを併合し、ニカラグア(後のパナマ)運河を作らねばならない」「日本は脅威だ」と。
 そして日本は日露戦争にも勝つ。このとき大統領になっていたルーズベルトは権謀の限りを尽くし、結果的に日本に一銭の賠償金も領土の入らないようにした。しかし二度の戦争に勝った日本は有色人種のヒーローになりつつあった、
 米国にとって日本はローマにとってのカルタゴと同じ、消滅させるべき敵だった。奸智だけは発達した米国は日本を分析した。日本は類まれなほど人的資源に恵まれ、教育に熱心で正義感は強い。
 弱点は資源も領土もないことだ。だから豊かな人口と資源をもつ支那を日本が手懐け「日本化」したとき「この二つの国が世界のヘゲモニーを取らないと誰が言いきれるか」(ムッソリーニ)という事態が引き起こされる。
 とくにその支那は満洲王朝のもと、負けた相手の日本に官費留学生を送って学ばせ、日露戦争では「日本軍の勝利に日本人と支那人が爆竹を鳴らして提灯を灯して喜び合って」(グレイル駐北京ドイツ大使)いた。
 日露戦争後、米国は急速に支那に接近する。狙いは二つ。日本と友好的な満洲王朝を倒し、かつ支那と日本を離反させることだ。
 一九〇八年、米国は義和団の乱で清朝から得た賠償金一千百万ドルを教育基金として今の清華大を立て、漢民族の子弟を対象に米国への留学制度をつくった。留学するなら東京より米国のほうがいいと。実際、この米国留学組がその後の日支反目を演出していく。
 次に米国はワシントン軍縮会議を開く。米国は軍縮より日英亡命の破棄が狙いだった。米国は戦艦数を日英が同盟を結んでいる以上その総和と等しい数、つまり英が五、日本が三なら米国は八を持つと脅した。日本はおそらくこれ以上の愚か者はいないといわれる幣原喜重郎が米国の脅しにすくんで日英同盟解消を決めた。
 もし日英同盟が生きていれば、前述の上海事変でも盧溝橋の挑発でも蒋介石に対し、日本はさっさと宣戦布告することができた。
 
 支那支援と日本批判
 
 宣戦布告すると支那と日本だけの戦いになる。のちにフランクリン・ルーズベルトに義勇兵名目で支那にシェンノートの部隊を派遣するが、日英同盟により英国は米国に宣戦することになる。ドイツが武器を支援し、軍事顧問団を送っても、英国は対ドイツ宣戦の義務が生ずる。
 弱い支那に軍事物資を送りつけ、戦争のやり方を指導して日本と戦わせるのは日英同盟のある限り、不可能だったのだ。
 米国ではこのワシントン会議を主宰したハーディングを米史上最も愚かな大統領と評する。それは謙遜で、彼はポーツマス条約で日本に賠償金を与えなかったセオドア・ルーズベルトと並んで、大敵・日本を倒す外交戦略上の最も偉大な功労者だった。
 かくて日英同盟を失った日本はいかなる支那の挑発にも宣戦できなかった。もし、支那との戦争を宣言すれば、中立国を装う米国がそれを口実に石油、鉄など軍事物資の禁輸を宣言し、日本は干上がる。欧米の走狗となった蒋介石が勝つこともあり得たわけだ。
 こうした布石の上で米国は文化面からの支那支援・日本批判をやった。パール・バックに素朴で愛される支那人を描かせ、毛沢東のもとにはエドガー・スノーを送り込み、蒋介石にはヘミングウエーを送って、支那のイメージアップを図った。
 もっともヘミングウエーは蒋とその妻、宋美齢の卑しさに言葉を失って蒋のイメージアップになることは何も書かなかった。
 こうしたサポートとは別に米国は軍事面でもドイツやソ連以上の直接支援を実施した。一九三五年にはシェンノートが送り込まれ、支那空軍の立ち上げを行う。第二次上海事変の折のみっともない「出雲」爆撃はその初陣だった。
 彼は杭州の飛行場でまず百人の支那人パイロットの養成をするが、そのころの操縦技能について石田一彦『シェンノートとフライング・タイガース』には「夜間飛行から帰投した十一機のうち一番機は滑走路を越えて水田に飛び込み、二番機は地上で宙返りをして炎上、四番機は作業中の消防車に激突した。結局五機が着陸に失敗し四人が死んだ」とある。
 米国は支那人の養成をあきらめ、一九三八年に芷江に飛行場をつくらせ、四一年四月までに二百四十人の米国人操縦士と百機のP40を送り込んだ。同時にルーズベルトは正規の米軍パイロットが海外で戦闘に参加することを公式に認める文書にサインした。支那軍機を装って日本本土の爆撃をやらせるつもりだった。
 これが世に言うフライング・タイガー部隊だが、実際に活動を開始するのは真珠湾後の日本軍の進出急につきビルマに逃げ、ビルマも危うくなって三月には安全圏に脱出する。たった三カ月の寿命で、この間「日本の戦闘機、爆撃機など七十三機を撃墜」というが、日本側にその記録はない。
 短命に終わったのは日本を滅ぼす戦争がすでに始まっていたからだ。
 日本を孤立させ、支那と仲違せる。そしてことあるごとに「日本が悪い」と言いつづけた米国の策略だ。いつまでの誰が戦犯かなどとやっていてはこうした構図は見えてこない。」(p72後ℓ4~p77最後)
 
○「大東亜戦争の正体―それはアメリカの侵略戦争だった」清水馨八郎著(祥伝社 平成18年)

「ペリー来航以来、一貫したアメリカの野望
 アメリカが日本を仮想敵国として、いつかは征服しようと戦略を立てたのは、いつの頃からであろうか。今までの日本の識者の見解では、セオドア・ルーズベルト大統領が日露戦争後の講話会議をポーツマスで仲介してくれた直後に立てたオレンジ計画(一九〇五年)あたりが最初と考えられてきた。だが実際には、その五〇年も前の嘉永六年(一八五三年)六月三日のペリー黒船来航の時点ですでに始まっていたと考えるべきである。
 その証拠に、昭和二十年八月、日本のポツダム宣言受諾を知ったニューヨーク・タイムズは「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に「われわれは初めて、ペリー以来の野望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、我が物になったのだ」との記事を載せた。これはアメリカ朝野の長年の願望が叶えられたことに対する偽らざる喜びの声であった。
 このことを裏付けるように、大東亜戦争終戦直後の東京湾上で行われた日本の降伏調印式で、会場となったミズーリ号の感情のマストには、古びた二旒の星条旗が高らかに掲げられた。一つはペリーの黒船来航時、旗艦ミシシッピ号に掲げらえていたもの、二つ目はフランクリン・ルーズベルトが日本を戦争に挑発することに成功した十二月七日のホワイトハウスに揚がっていた星条旗である。今は亡き、ペリーとルーズベルトという日本侵略の立役者を称え、野望が叶ったことを両英雄に知らせ、感謝する瞬間を演出したのである。
 ペリー来航の表だった目的は、米国の捕鯨船などが給炭、食料補給のために立ち寄る港の開港を迫ったものであったが、黒船がかなり長期にわたって付近の海洋調査などを実施したところをみると、やがて遠征軍を以て日本を侵略し征服する野望が当初からあったことは明らかである。

オレンジ計画という対日敵視政策
 日露戦争は、白人が近世初めて黄色人種に敗北した戦争で、日本の勝利は世界の非白人の植民地民族を感動させた。当初英国も米国も、日本が彼らのライバル、ロシア帝国を破ってくれたことを歓迎した。ところがヨーロッパの白人は極東の日本の台頭を見て、白人が一方的に世界帝国主義支配を継続する上での危機を感ずるようになってきた。その代用がドイツのウィルヘルム二世の「黄禍論」であった。
 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも日露戦争では日本を応援し、ポーツマス講和会議を仲介してくれたが、一方心の底では日本のアジアでの発展は、米の太平洋やアジア派遣には必ず障害になると考え、日本を仮想敵国に位置づけることになった。ここに早くもオレンジ計画という日本打倒の国策が打ちたてられた。これは米国の日本に対する黄禍論の嚆矢とみてよい。
 十九世紀の末まで白人の世界制覇は順調そのもので、あと一歩で完全支配を達成しようとした矢先の日本の出現は、白人にとって大変な驚きであったろう。英米のリーダーたちは、なんとしても日本が強くならないうちに打倒しておかなねばならないと構想を練った。この低意による入念な戦略が、ついに形をなしたのが英米による大東亜戦争であった。つまり日露戦争の勝利が遠因となって、英米の大東亜戦争勃発へとつながっていったのである。
 このオレンジ計画は、日米戦のあらゆる場面を想定した侵略戦争計画で、その後の日米交渉、開戦から終戦、占領政策のすべてに貫かれている。
 大正三年(一九一四年)のパナマ運河の開通から、太平洋はわが海とばかり、アメリカの縦横無尽の活動が始まった。このアメリカのアジア・太平洋への野望を妨げる勢力としても、日本の存在は目障りだったのである。
 昭和七年(一九三一年)、フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選した。彼は当初から日本を極端に嫌い、憎み、叔父のセオドア・ルーズベルト大統領が生み出したオレンジ計画を信奉し、在位三期の長期政権担当の期間を通じて、一貫して日本打倒の謀略に情熱を傾けていた。

対日侵略戦争の布石
 第一次世界大戦の終結で、パリ講和会議(一九一九年)が開かれた。戦勝国側の日本は、この会議で存在感を示そうと人種差別撤廃を強く提案した。人種平等の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の賛成を得られた(委員十九名中、一一名賛成)。ところが議長のアメリカ大統領ウィルソンは、英国と組んで、このような重要な決定は、全員一致でなくてはならないと難癖をつけ、可決したはずのの提案を否決してしまった。植民地を多く持つ白人列強に都合が悪いからであった。日本に対するあからさまな挑戦であった。
 日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、否決と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情し、解放の時を目指して決意を新たにした。
 日米戦を予想していた米国は、その戦力を日本より優位にしておく必要から、ワシントンでの軍縮会議を提唱してきた(一九二一年、大正十年)。日本戦は海軍力の競争になるとの予想から、海軍主力艦の日英米比率が三・五・五に決められた。日本側、特に海軍は猛反対だったが、当時の政府は財政上、軍縮計画を歓迎した。
 ワシントン会議は、戦艦と航空母艦についての保有比率だったが、補助艦艇については制限がなかった。そこでアメリカは補助鑑定についても制限しておく必要から、ロンドン会議で海軍軍縮条約を提案した(一九三〇年)。平和を望む日本政府は、財政上も軍備縮小を歓迎し、このロンドン会議の提案にも賛成した。かくて英米対日本の戦力は一〇対六・九七に抑えらえた。こうしておけば、英米はいつ日本と開戦しても負けるはずがないものと安心した。
 ワシントンとロンドンでの二つ会議は、名目上は「軍縮会議」といいながら、英米にとっては軍拡であり、日本のみが軍縮を迫られることになった。当時の日本はまさか英米二大国と戦争を起こすことなど思いもよらなかったので、安心して軍縮に応じたが、お人好しの日本は、これが、英米の対日侵略戦争の布石であることに気がつかなかった。

アメリカの狙いは満州、邪魔者は日本
 アメリカは白人植民帝国主義の歴史で、最後に遅れて登場した国だ。アメリカがアジア大陸にその侵略の矛先を向けた頃には、英仏などの白人先進国にほとんど占領されて、残っていたのは満州だけだった。ここに無理に割り込もうとすれば、先発の日本と衝突するのは目に見えていた。
 満州には、日露戦争以来の日本の利権があり、すでに五族協和を理想とする満州国が成立していた(一九三二年」。そんなことにお構いなしに、アメリカは日本を満州から追い出し、利権を独り占めしようと企み、次から次へと日本叩き政策を採って、日本を挑発しつづけた。満州は緯度の上からも、広さからも、米国本土と類似し、資源が豊かであり、可能性が高い土地であった。米国がここにこだわる意味があったのである。
 かくて満州の利権をめって、先発の日本と後発の米国が最終対決戦に入るのは時間の問題と、世界の世論は見ていた。
 戦後の日本の野党や進歩的文化人たちは、戦前の日本は西欧列強を真似て、遅れて大陸に侵略した、後発の植民帝国主義だったと見なしているが、これはすべて違うのである。
 その頃までに南北アメリカ大陸や東南アジアは、すべて地球の反対側の白人が占領しつくしていた。中国の要所は英、仏、独、露に蚕食されていた。もし日本の力がなければ、満州も朝鮮も白人(ロシア)傘下に入っていたはずである。日本がその生命線である朝鮮半島や満州に進出したのは、白人のアジア侵略を防ぎ、巻き返すための当然の反撃だったのである。日本の行為は、白人のアジア支配と同日に論じられてはならない。日本のそれは近隣諸国と日本の生命線を守るための自衛であり、白人のそれはすべて植民地拡大の侵略行為であった。
 さて、日露戦争直前に結んだ日英同盟(一九〇二年)は、戦争に実に有効に機能した。バルチック艦隊の長路の日本遠征では、途中の英領関係の港での寄港を拒否、妨害され、食料補給、給水などに支障をきたした。これは、ロシア軍にとっては大変な痛手となった。
 日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、友邦の英国を日本から切り離しておかねばならないと考えた。そこでロンドンの軍縮会議を機に、日英同盟の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、英国はすでにその使命が終わったとして、米国の提案に賛成した。その頃から、米英は協力して日本の勢力拡大を抑える反日の姿勢を明らかにしていったのである。

支那事変で、日本と国民党を戦わせようとした陰の力とは
 大東亜戦争の日本の真の敵は、門前の虎、アメリカのルーズベルト大統領と、後門の狼、ソ連のスターリン、この二人であった。この二人とも白人に刃向かう唯一の有色人種の国として日本を感情的に憎んでいた。
 特にスターリンは、日露戦争の敗北の怨みを、いつかは晴らそうと、陰険な陰謀を策していた。彼は戦わずして勝つ孫子の兵法を巧みに使った。それは一つ、敵同士を戦わせる。二つ、できるだけ長期戦に誘導する。三つ、両者が疲れ果てた時、割って入って漁夫の利を得る、以上三策であった。
 ソ連にとっては、英独も日米も資本主義国で、ソ連の敵であった。そこでまず資本主義国同士を戦わせ、混乱させ、最終的には世界共産革命を完成しようと企んだのである。第二次大戦で彼は、これを見事に実践して成功させた。あの戦いで、領土を拡張し、共産国を増やし、戦争の目的を達したのはソ連だけであった。この点から見ると、ルーズベルトも完全に騙されたのだ。悪知恵ではスターリンはルーズベルトより一枚も二枚も上手だったのである。
 支那事変の発端となった盧溝橋事件は、スターリンが後ろで糸を引き、中国共産軍に仕掛けさせた罠であった。目的は蒋介石軍と日本軍を無理矢理戦わすことにあった。日本側がいくら隠忍自重、不拡大方針を採っても、中共軍は日本人虐殺の通州事件、上海事件といったテロ事件を次々起こし、日本軍を大陸のドロ沼に誘い込んでいった。まさにそれは「モグラ叩き」さながらの終わりなき戦いの様相を呈していった。日本軍は完全に嵌められたのである。
 かくて事変は、日本が大陸に進んで侵略戦争を仕掛けたものでなく、中共軍が、国民を反日にそそのかし、次々に各地でゲリラ事件を起こし、その鎮圧のため日本軍が大陸に進駐せざるをえなくした計画的な挑発でった。
 これは、米国の真珠湾と同じく、ソ連、中共によって作られた計画的な謀略戦争であったのだ。日本側がいかに不拡大方針で自重しようとしても、中共によって作られた計画的な謀略戦争であったのだ。日本側がいかに不拡大方針で自重しようとしても、中共軍によって日本の居留民や駐留日本軍に次々とテロ活動を起こされたのでは、軍は救助に行かざるをえない。
 次に米国は、やがて始めようとする日本戦に備えて蒋介石軍に肩入れし、大量の援蒋物資を送って、日本軍を疲れ果てさせようとした。直接的には、アメリカの正規軍である「フライング・タイガー」と名乗る三〇〇人の空軍兵士を送り、先頭に参加させているのである。この段階ですでにアメリカは、対日戦争に突入していたのである。
 日本政府はこの望まざる戦闘行為を北支事変といっていたが、逆に全支に拡大されて、これを支那事変といわざるをえなくなった。だから日本にとっては正式な国家の対支宣戦布告もなく、事件として処理しようとしていうのに、支那側はこれを日本の中国侵略の「日中戦争」に格上げして内外に宣伝していった。
 日本が直接戦わされた相手である国民党軍にして、蒋介石は、共産党軍との来るべき対決を考えると、日本戦に深入りすることは得策ではなかったのに、いつの間にか身動きができないようにされてしまった。かくして、この支那事変の性格を一言で言うと、蒋介石と日本が、米ソの謀略で無理矢理戦わされた、挑発された戦争であったのだ。
 かく考えると、大東亜戦争も、現在の中共が言う「日中戦争」も、一方は東からアメリカ、一方は西から中国が日本に向かって攻めてきた侵略戦争であったことが分かる。

ルーズベルトの執念が実った日本との開戦
 ルーズベルトは一九三三年(昭和八年)三月四日、第三十二代米国大統領に就任した。以来しなわち支那事変が起こる前から、彼はアジア・ヨーロッパに及ぶ大陸支配を確立しようとする大構想を持っていた。それについて「ルーズベルトが大統領に就任した時、日米開戦はすでに決定づけられていた」と説く識者もいる。実はそのとおりであった。
 彼は生まれながら、叔父のセオドア・ルーズベルトによる日本打倒のオレンジ計画を信奉して、着々とその策略を実行していったのである。白人は一般的には人種差別観念を持ち主であるが、彼はその中でも徹底した人種差別論者で、特に日本人に対する憎悪は強烈だった。彼は国家としての日本の存在を容認したくなかった。
 当時ホワイトハウスには、ルーズベルトの外に陸軍長官ヘンリー・スチムソンがいた。この二人こそ日本と日本人を最も敵視し軽蔑し憎悪した、札付きの反日派巨頭であった。彼らは「欧米人は人類の支配者」という独善的信条を持つがゆえに、日本は決して対等の相手ではありえず、協調、共存を拒絶し、日本に屈従と隷属のみを求めたのである。
 日本が真に名誉ある独立国たらんとする限り、かくのごときアメリカと最後に戦うほかなかったのだ。それなのにお人好しの日本人は対米協調共存が可能であると錯覚していた。このことは後の昭和十六年春から十一月まで続いた駐米大使・野村と、国務長官ハルとの日米交渉で実証された。いくら日本が下手に出ても、アメリカは一歩も譲歩しなかったのである。
 アメリカの日本叩き、日本いじめ政策の第一弾が、一九二四(大正十三年)の排日移民法の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。後に昭和天皇は後日談の中で、この移民法の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐されておられるほどである。
 ルーズベルトは何とか日本を戦争におびき出すため、今度は経済政策を採るのである。それは石油と屑鉄の日本への輸出禁止である。当時、すでに「石油の一滴は血の一滴」とわれる時代に、米国は日本への石油輸出を全面的に禁止した。石油の大半をアメリカに依存していた日本の打撃は致命的であった。
 日本は生きるために、東南アジアの石油資源に頼らざるをえず、南方進出はやむをえない措置だった。さらには米国は英中蘭の三国をそそのかし、いわゆるABCDラインという経済封鎖を敷いて、日本を封じ込めるといういじめにも等しい政策を実行してきた。
 日本はこの危機を脱するため、誠意をもって日米交渉を進めた。野村駐米大使とハル国務長官の日米交渉は昭和十六年三月八日から十一月二十六日まで、九ヵ月にも及んだ。もとよりアメリカに交渉をまとめる意図はさらさらなく、戦争を準備する時間稼ぎにすぎなかったのである。そのため当初から日本側を苛立たせるだけで、解決の糸口はまったく見つからなかった。米側は日本側が到底呑めないことを承知で、次々難題を突きつけ、開戦せざるをえないように挑発しつづけた。
 そして十一月二十六日、最後通牒としてはハルノートを突きつけてきた。これは明らかに一方的な宣戦布告であった。日本よ大陸から出ていけ、日本を死ねと迫ったのである。

歴史が証明するアメリカという国の恐ろしさ
 日本はそれまで、米国に対して豊かな文明国として尊敬し、友好関係の維持に努めてきた。一度として米国領土を侵略するような意図も持たず、行動も起こしていない。してみると日米交渉は、初めから日本を戦争に巻き込むための一方的挑発行為で、米国の日本への明らかな侵略戦争行為であった。
 かの日本無罪論のパール博士は、アメリカの歴史学者A・J・ノックの言を引いて、このような挑発を受ければ、モナコのような小国でも武器をとって米国に立ち向かったであろうと述べている。
 まさに「窮鼠猫を噛む」の心境で決然として、対米戦に立ち上がったのである。人は大道で屈辱を受け、強者に裸にされ、上着の脱げ、さらに猿股も脱げと辱められれば、死を覚悟で敵に立ち向かうであろう。この最後通牒を受けて当時の日本には、自殺するか、降服するか、さもなくば、戦うかの選択した残されていなかったのである。
 一方当時ヨーロッパ西部戦線では、英国がヒットラーの攻撃を受けて苦戦中であって、チャーチルは一刻も早い米国の参戦をルーズベルトに懇願していたのである。
 ルーズベルトは国民に対し、「私は二度でも三度でも繰り返して言いたい。皆さんの息子さんたちを、決して外国の戦争に引き出すことはない」と言いつづけ、国民を騙して大統領に当選した。この言をくつがえして国民を戦争にたちあがらせるためには、さらに大きな騙しの手を打たねばならない。そのためには、今度は日本がパールハーバーを攻撃するように挑発し、自国の兵士を二〇〇〇人余りを見殺しにするという犠牲まで払うことになった。こうして彼は巧妙な演出によって米国民と日本国民の両方を騙して、まんまと念願の戦争に突入できたのである。
 以上によって、今次日本戦争は、アメリカが計画的に侵略戦争を仕掛けてきたものであることが明らかである。戦後マッカーサーの捏造した東京裁判史観の、日本の軍国主義者が共同謀議して、中国大陸に対する侵略戦争を起こしたという歴史認識も誤りであることが分かる。ここでも歴史認識のコペルニクス的転回が迫られるわけでサル。
 「殴られたら、すぐ殴り返す」という開拓時代からのカウボーイ的精神は、今なおアメリカ人の気質のなかに連綿と受け継がれている。そこに肉食人種の攻撃本能を見る。アメリカは恐ろしい国なのである。アメリカ人は弱い人間を徹底的に狙って叩く、あるいは相手の弱いところに狙いを定める。その上、アメリカ人は自分自身に強い確信をもっている。このアメリカ人の「自己に対する確信の強さ」は、持ち前のヤンキー魂」と相まって、他人に対する強い「自己主張」となり、敵に対する「野性的攻撃」に転化してゆく。
 この個人としてのアメリカ人の性格は、国家としてのアメリカについても当てはまる。再度言うが、殴られたら殴り返す国、撃たれたら撃ち返す国であることを忘れてはならない。そして受けた傷が深ければ深いほど、反撃する力も強く野蛮になる。
 その実例は沢山あるが、パールハーバー攻撃の日本に対するアメリカの対応、近くは、九・一一テロに対するアフガン、イラク戦争の猪突猛進振りに、はっきりと見られる。」(p82~p97)
 
○「『太平洋戦争』 アメリカに嵌められた日本」マックス・フォン・シュラー著(ワック 2015年)

「私は子供の頃からアメリカの歴史、戦争の歴史に興味があったので、感情的な見方をすることもなく、冷静に真実を知りたいという気持ちが強く、アメリカの外に出てからさらに歴史を勉強して理解したことは、「アメリカ例外主義」と称すべき哲学があることだ。これは「神様はアメリカを選んだ」という宗教的信念に基づき、「アメリカを世界で最上位の国」と位置づけることで成り立っている。つまり、世界は最上位の国アメリカとその下にある他の国で構成され、最上位ゆえに他の国と違ってアメリカはいろいろな「例外」があると考えるのだ。
 同時に、「神様は最上位の国であるアメリカに世界の国々を支配する使命と、世界の人々をアメリカのキリスト教(プロテスタント)に改宗させる使命を与えた」とも考えられてきた。このような哲学が建国以来、脈々とアメリカ人の根底に流れ続けている。」(p13~p14)
 
「ペリー提督は、日本との国交を開くという使命を持っていた。アメリカが日本にいろいろな形での交流を迫ったのは、簡単に言えば二つの狙いがあった。第一に、日本をアメリカの支配下に置きたい。第二に、ミッションとして日本人をキリスト教に改宗させたい。そして、戦争が始まるかもしれないほどギリギリの駆け引きを仕掛けて、日本国交樹立が実現した。
 なぜ、ペリーはあれほど高圧的かつ強引だったのか。理由は簡単である。「他の国をアメリカと交流させることは、神様から与えられた使命である。アメリカという素晴らしい国との交流は、どの国にとっても好ましいことだ」と思っていたからだ。日本人が「アメリカと交流したくない」「アメリカには興味がない」と言っても聞かずペリーが「日本人にアメリカとの交流を求めさせようとした」のは、厚顔無恥とか横暴というより、「日本はアメリカと交流するしかない。それによって日本が良くなるからだ」という信念が大きな理由だと思う。」(p15~p16)

「一九四一年一二月の日米開戦に至るアメリカ側の要因はさまざまだが、そのうちで見落としてはならないのが「帝国主義政策」である。
 一八九〇年に「インディアン戦争」が終わった。これをもって「大西部の併合を成し遂げ、フロンティアが消滅した」と言われる。つまり、北アメリカ大陸の東海岸から西海岸に至る地域を版図に組み込んだとき、国土を拡張する余地が大陸になくなったわけだ。
 「インディアン戦争」の性格は国と国との戦争ではないにしても、領土拡張をもくてきとした帝国主義戦争である。大陸に「余地」がなくなったところでやめるという選択肢もあったが、アメリカが選んだのは「海外での領土拡張」だったことで「マニフェスト・デスティニー」(明白なる使命)は、太平洋を舞台とした帝国主義として広がっていくのだ。」(p57)

「アメリカの帝国主義政策の裏側では、日本という国への危機感が高まり、これが日米関係の悪化を促進した。
 アメリカが日本に危機感を持ったのは、日露戦争によってである。当時、アメリカ人だけでなく、キリスト教国の白人は「有色人種は劣っている。自分たちが世界を支配するのは当たり前だ」と考えていた。ところが、有色人種で非キリスト教国の日本が、白人でキリスト教徒の大国ロシアに勝利した。アメリカ人を含む白人の目に、日本人が有害な存在として移り始めたのは不思議なことではない。」(p64~p65)

「アメリカが日本を敵対視するようになった要因として、「中国」の存在は無視できない。
 そこには宗教が関係していた。カリフォルニア州で外国人土地法が成立した一九一三年頃から、アメリカではキリスト教宣教師たちが対日政策に大きな影響を与えるようになった。一九一一年に辛亥革命が起こったが、一九一三年に中国の革命政府は世界中のプロテスタントのキリスト教会に対して「自分たちの革命が成功するよう、祈ってほしい」と求めた。これをアメリカの宣教師はとても喜んだ。
 アメリカ人は自分が世界でベストであり、自分の提案が一番素晴らしいと思っているし、「アメリカのキリスト教を世界に広げる使命を神様から与えられた」と信じている。中国の革命政府はアメリカだけでなく、世界のプロテスタントに頼んだのだが、「アメリカのキリスト教にお祈りをお願いした」とアメリカ人の宣教師が受け止め、「助けてください」を「私はあなたの教えに従います」というメッセージだと理解しても不思議ではない。実際、アメリカ人は中国人がすり寄ってきたと感じた。
 一方、同じ黄色人種でも日本人は「助けてください」とは言ってこない。日本人と比較すると、図々しい民族だと感じてしまう。また、開国後の日本にアメリカ人の宣教師が来て努力したが、日本人はあまり改宗しなかった。したがって、キリスト教を広まらない日本はアメリカのパートナーになる望みはない。そういう日本を嫌い、中国はキリスト教の広まる可能性があり、パートナーになりなり得ると考えられたのである。しかも人口がとても多い。」(p73~p74)

「日米戦争は止められなかった
 
 フランクリン・ルーズヴェルト大統領は第二次世界大戦に参戦したかった。目的はドイツからヨーロッパを救うことだ。アメリカ参戦のきっかけをつくるため、日本に攻撃させた」と考える説がある。ヨーロッパ方面の戦争とアジアの戦争で、アメリカのウエイトはどちらにあったのかと問われたら、私は「両方」と答える。アメリカの主な目的は、「ヨーロッパの場合はイギリスを守ることであり、アジアの場合は中国を守ること」というのが私の見解である。
 なぜ、アメリカが中国を守ろうとするのか。これは既に述べてきたことだが、中国がアメリカの家来になると考えていたからだ。
 では、なぜイギリスを守るのか。ヨーロッパでは唯一、ドイツとの戦いを続けているだけに、イギリスが降伏してしまったら、ドイツに対抗するための橋頭保を失う。イギリスを守ることがヨーロッパを救いことに繫がるからだ。
 「日本にアメリカとの戦争を避ける選択肢はなかったのか」と日本人からしばしば質問される。私の答えは「なかったと思います」だ。トップのルーズヴェルト大統領、外交の責任者であるハル国務長官、そして強硬派のスティムソン陸軍長官という権力の中枢にいる三人が、日本との戦争を望んでいたことがその理由である。近衛総理大臣が大幅な妥協案を示して求めた日米首脳会談を拒否されたことは、ルーズヴェルト政権の意思を如実に示している。
 アメリカでは「妥協するのは弱い人」であり、強い人が称賛される。そこには「強いものが弱い者を従わせる」という価値観がある。もし日本に戦争を回避する選択肢があるとするならば、「日本はアメリカに従属する」ことだけだったと思う。
 しかし、それは独立国としての自殺を意味する。日本軍は段々と潰され、日本の産業も弱体化される。そして、完璧にアメリカの支配下に入っただろう。つまり、戦争を回避できたとしても、なし崩し的にアメリカの支配下に置かれたと私は考えている。
だから、アメリカとの戦争を避ける選択肢はなかったと考える。
 有色人種の国・日本を植民地にする――それがアメリカの目標だった。現在、交渉中のTPPにしてもそうである。日本社会はアメリカのやり方に従うことでさまざまな産業を失うことになり、アメリカの製品・サービスを買い、アメリカのものを食べる。アメリカ人が完璧に支配する「奴隷の国」をつくるための制度だ。明治時代の先人たちが命がけで解消した不平等条約をもう一度、結ぶようなものだろう。」(p95~p97)

平成27年12月16日作成   平成28年03月11日最終更新  第111話