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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

44.台湾と朝鮮に対する植民地支配について

「歴史認識の問題 その6」は、「台湾と朝鮮に対する植民地支配」により収奪したという言葉のウソについてです。台湾統治の問題は、参考図書の引用で十分だと思いますので、朝鮮統治の問題に記述をしぼります。

平成27年11月1・2日に日中韓の首脳会談が韓国でおこなわれました。習近平国家主席には国賓として最大限の歓迎を行い、公式な晩餐会を朴槿恵(パク・クネ)大統領は、開きました。一方安倍晋三首相にたいしては、実務訪問であるとして歓迎はなし、晩餐会にも招待しませんでした。このような失礼な外交があるでしょうか。自虐史観(WGIP史観)に洗脳されたほとんどの日本人は、このことを非礼と感じません。非礼としないマスコミや政治家がほとんどであることを奇貨として、承知の上での非礼な行動を国内外に示しました。世界に発信しました。
 この姿勢に韓国国民の心情が表れているように思います。1392年の李氏朝鮮建国当時から臣従していた中国は、自分の宗主国であり、従うべきもの。心情的には中華帝国と一体化していますので、日本は東夷の国。この日本と一緒になり近代化したことが心情的に許せないのです。これが韓国が反日である第一の理由です。

 最近、『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910ー1945』ジョージ・アキタ、プランドン・パーマー著塩谷紘訳(草思社 2013年)が出版されました。反日論や嫌韓論から一方的に主張を述べる本が多い中で、事実を客観的に検証した姿勢は、特筆すべきでぜひとも読んでいただきたい本です。その中に
 「日本人に対する朝鮮民族の嫌悪の根源」という項目があり、

 「朝鮮における反日感情の根源は、民族の誇りが傷つけられたことにある。朝鮮人は、高度な文明社会だった祖国が、野蛮人とみなされていた日本人によって侵略されたことで侮辱され、面子をつぶされたと感じている。朝鮮民族は、"偉大な民族"が儒教や仏教の手ほどきをしてやった民族に侵略されたという事実をどうしても受け入れることができないから、いつまでも日本人を憎むのである。」

 とありました。この「民族の誇りを傷つけられた」という点は、事実であると思います。しかし、その他の点については同意できません。

 日本人=野蛮人   朝鮮民族=高度な文明社会・偉大な民族
  
 これは、正に儒教の世界観そのものです。 まず、固有文字についてです。私は平田篤胤の研究のように漢字が入ってくる以前に日本固有の文字があった(いわゆる神代文字)と思っています。「カタカナ」も「ひらがな」も神代文字の象形神字、あひる草文字の流れをひくれっきとした日本固有の文字であると考えますが、一般に受け入れられているように「カタカナ」は800年頃、「ひらがな」は900年頃漢字から創られたとしても、朝鮮人が固有の文字「ハングル」をもったのは1446年李氏朝鮮の時代のことです。このこと一つとっても何処が野蛮な日本なのでしょうか。おくれた日本なのでしょうか。
 また、日本固有の歴史的言い回しである4大文明の黄河文明、あるいは長江文明に匹敵する縄文文明があったことは山内丸山遺跡で明らかではないかと思います。世界最古の土器や漆塗り、食べ物の栽培などけっして四大文明にひけを取るものではありません。

 日本書紀の継体天皇七年夏六月(513年)の項に
 「百済は、・・五経博士段楊爾をたてまつった。」(宇治谷孟の訳による)
 五経とは「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」のことです。つまり、五経博士とは、前漢の時代に設置された儒教の聖典である五経に精通した学者のことです。このことにより儒教の精神が百済から伝えられました。しかし、文脈からすると任那国四県を百済に与えた代償とも取れます。「五経博士」を百済が送ってきたのも、日本との同盟を強化するためでした。
 日本書紀の欽明天皇十三年冬十月(538年)の項に
 「(百済の)聖明王は西部姫氏達率奴唎致契らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経倫若干巻をたてまつった。」(宇治谷孟の訳による)とあります。
 釈迦仏を百済の聖明王から欽明天皇に贈ったという記事です。公式に仏教が百済から伝来したということになります。しかし、当時の日本と百済は同盟関係にあり、共通の敵である新羅とたたかっていました。援軍依頼のために仏像を送ったというのが日本書紀の記録です。このような歴史的経緯の無視して教えてやったとして日本を野蛮人扱いするのは、公平を欠いているのではないかと思います。また、仏教が開花するのは、聖徳太子やそれ以降の空海、最澄や鎌倉新仏教の時代で、朝鮮半島に留学したのではありません。当時の世界帝国であった唐や宋に学びにいって仏教の花を開花させました。教えてやったのにとは言えない事実があります。
 
 さて、日本に領土的野心があったわけではありません。朝鮮(韓国及び北朝鮮)が日本領となった経緯は、下の参考図書の引用を読んで下さい。そのような経緯をもて韓国は1905年より日本の保護国、1910年より日本国の領土となりました。 
 当時の日本政府は、毎年国家予算の10%から15%をつぎ込み朝鮮の近代化をすすめました。奴隷社会から近代市民社会への変化は日本統治なしにはなしえなかったことでした。
 しかし、「野蛮人の日本人に強制されて行われたことは、我ら朝鮮民族の誇りをきずつけ、迷惑なことであった」という批判はあまんじてうけねばなりません。どの民族も独立自尊の精神こそ大切なものであるからです。しかし、今日の批判はウソ八百、捏造の批判と言わねばなりません。
 
 歴史にIfは、ありませんが、韓国の長年の帰属意識である中国の属国のままでいたいとの想いが実現していたとしたら、中華人民共和国成立のおりの残虐な文化破壊、裕福な人々の大量虐殺の政治の影響からはまぬがれなかったでしょう。中国国内の朝鮮族のようにまずしい非文化的な生活を今日なおしいられていたでしょう。
 また、明治以降の国際情勢の中では、日露戦争での日本の勝利がなければ、ロシアの領土となっていたのは明白な事実です。そうなれば、ロシア帝国の支配下に入り、ソビエト連邦の支配下に自動的に組み入れられ、今なお独立国ではなく、ロシアのなかの少数民族としての悲哀をあじわっていたでしょう。
 さて、日本の敗戦によって強制的に韓国は、日本から分離して独立させられましたと当時の状況からいえると思います。反日ゆえにアメリカに亡命していた李承晩が韓国の初代大統領になりました。正確にいうとなったのではありません。アメリカが日本と韓国が仲違いするように(「分割統治」)李承晩を大統領にしたのです。そして、李承晩は、反日教育をすすめました。今なおウソの反日教育をおこなっています。結果として、日本統治時代を知らない世代ほど、日本人を鬼畜であると思っているようです。
 共産主義ソビエト連邦と成立したばかりの中華人民共和国を後ろ盾に北には金日成を主席とする朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)が成立しました。
 韓国と北朝鮮は、1950年から1953年にかけて朝鮮戦争を戦います。朝鮮半島では両軍の往還によって国土が2度戦場となり多くの同胞が殺し合わざるを得ませんでした。この戦争があったおかげで、太平洋戦争に敗北した日本は、復興しました。このことも又、反日の第二の理由であることが想像されます。朝鮮戦争は、韓国にとって不幸なことでありました。

 さて、韓国がどのように日本のことを評価しようとそれは韓国の歴史認識の問題でとやかく言う必要はないと思います。
 しかし、韓国の歴史認識が、そのまま、日本の学校教育で教えられてきているということに問題があります。 
 手元に岩波新書が2冊あります。「日韓併合小史」「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎著、1966年と1971年初版本です。高校の教員になって初めて人権教育担当になって読んだ本です。 いかに日本は、領土的野心をもって朝鮮に臨んだか、そして、朝鮮支配で、収奪・略奪したかの視点に立って書かれた本です。これらを読んで生徒達に人権教育の責任者としてHRで「朝鮮に対する日本の植民地支配について」指導しました。歴史の教員として朝鮮の歴史を語るときにも、明治維新以後の日本の歴史を語るときにも、違和感を感じながらも同様の史観に立って教えてきました。

 「高校生に日本について誇りを持たせたい。日本は素晴らしい国であることを伝えたい。」と思って私はこのホームページを平成18年に立ち上げました。しかし、この時点では朝鮮併合と日中戦争の侵略性については、当時は弱肉強食の時代であったとしても否定しがたいという想いがありました。初期に書いた項目にはその名残が今なお残っていると思います。 しかし、ホームページ作成のため様々な著作を買い集め精読していくうちに、すべては意図をもって日本を陥れるために捏造されたストーリーであることに気づきました。ここ数年前のことです。そして、今回歴史認識の問題として、洗脳からさめた内容をepisode31 から51までにまとめることとしました。
 ウソを100回言えば本当になるといいますが、歴史教科書は、WGIP史観にしたがい日本は侵略国でありとんでもない国であるという事を前提に書かれています。今でも、WGIPを遵守する人々が歴史学の学者になり教科書を書き、マスコミを握っています。そして、その歴史教育の成果は、空気や水のように浸透しています。ほとんどの歴史教員は、疑うことなく信念をもって今なおWGIP史観で教えています。ここまで浸透すると、国際社会までもがウソの歴史を本当と信じて、従軍慰安婦の少女の像を設置することを認めたり、ありもしない南京大虐殺をユネスコが世界記憶遺産に登録することになってしまいました。

 ようやくWGIP史観から脱却した歴史教科書である育鵬社「新しい日本の歴史」(中学校)や明成社「最新日本史」(高校日本史B)が出版されるようになりましたが、採用はごくわずかで、いまなお大々的な不採用運動がおきています。

 このホームページの歴史認識の問題の記述に違和感を感じる方は、是非とも先入観を棄てて冷静にWGIPから脱却した歴史観で書かれて書物に触れて、自分の力でマインドコントロールを溶いていただきたいと願っています。残念ながら、専門の歴史家はほとんどすべて100%と言った方が良いほどWGIP史観の持ち主です。そうでないと教授になれないシステムがいまだに残っています。
 マインドコントロールを溶いてくれる歴史書の著者は、ほとんどすべて歴史学者ではありません。しかし、それゆえに常識があると肯定的に評価しないといけないと思います。私は、若狭和朋、渡部昇一、水間政憲、清水馨八郎、黄文雄、竹田恒泰、藤原正彦、林房雄などの著作を読み進めるうちにようやく目が覚めました。WGIPの洗脳から醒めないかぎり、日本に未来はないと考えます。特に、朝鮮半島や中国大陸に動乱がおき、日本に難民が押し寄せるようなことになったとき、日本人としてのアイデンティティが確立していなければ、風前のともしびである日本の良き伝統や精神文化を保つことが出来ずに、日本全体が犯罪天国のスラム街と化し、治安も一挙にくずれてしまうのではないかと危惧しています。 日本人としての精神性の芯がしっかりしておれば、治安を保ち難民を日本風に感化することも可能となると信じます。

 日本の「和を以て貴しなす」という精神以外に世界に平和をもたらすことはできないと考えます。そのためには、日本人として誇りを取り戻すことが重要です。

参考図書

「八田與一のこと」 藤 鈴蝸

○「『日本の朝鮮統治』を検証する1910―1945」ジョージ・アキタ、プランドン・パーマ―著塩谷紘訳(草思社 2013年)
  推薦図書。当時の資料、反日論を検証しながら公正であろうとして書かれています。

 「同化を進め、支配体制を確立させる段階において、日本が朝鮮の人々に深甚な苦痛、屈辱感、そして怒りを味わわせたことは否めない。しかし、民族史観的パラダイムのもとでは、不幸にして、朝鮮の人々のこうした否定的な体験のみに焦点が絞られる。だがそのような体験談では、決して朝鮮統治のすべては語れないのである。われわれは今回の研究を通して、日本政府並びに朝鮮総督府の上層部は公平であることを肝に銘じて統治にあたり、朝鮮の人々の安寧のために懸命に努めたことを示してきた。
 もちろん、本研究は朝鮮において日本が行ったことを取り繕うことを意図してなされたものではない。だが、一方でわれわれは、日本による朝鮮統治を可能な限り客観的に検証した本研究の結果を通して、朝鮮・韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴史の記憶をあえて選択して記憶に留める傾向を、可能なことなら少しでも緩和するお手伝いをするべく努力してきた。その中でわれわれ二人にとって非常に印象的だったのは、朝鮮の近代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意をもってあらゆる努力を惜しまなかったという事実だった。だから日本の植民地政策は、汚点は確かにあっったものの、同時代の他の植民地保有国との比較において、アモス氏の言葉を借りて言うなら、「九分どおり公平 almost fair」だったと判断されてもよいのではないかと愚考するしだいである。」(本著作の結語 p304)
 
○「日本統治時代を肯定的に理解する」朴贊雄著(思草社 2010年)

「序に代えて 朝鮮の文明開化に貢献した日本

  日本の植民地時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、この世を去る前に率直な心情を書き残したい気持ちでこの短文を綴る。

・現代の尺度で裁くのは不当
 「日本人は平和愛好の弱小民族である韓国を銃剣で踏みにじって植民地化し、三十六年間、虐政をを施しながら土地と農産物を仮借なく収奪した。南北すべての朝鮮人は、当時の亡国のつらさを思い浮かべると、今でも身の毛のよだつのを覚える」
 これが今の南北朝鮮人の決まり文句となっている。だから、日本は韓国に対して多大な賠償金を支払わなければならないというわけで、日本は南の大韓民国に対して戦時賠償金を支払って〔日本側は、両国は戦争状態でなかったという見地から、経済援助として無償三億ドル、有償二億ドルを提供〕国交を正常化した。〔1965年〕。ところが、北朝鮮は北朝鮮なりに戦後賠償を当然のこととして期待しており、日本も、当面の拉致問題が解決され次第、国交を正常化して多大な金額を支払うことに同意している状態だ。
 僕はこの筋書きに対して少なからぬ憤怒感を抱く。
 朝鮮が日本の植民地に陥る一九〇五―一九一〇年当時の世界は弱肉強食の時代で、経済力や軍事力のひ弱な国は、植民地獲得戦に乗り出している列強が競ってこれを食い物にした。
 韓国の当時の経済力や軍事力は列強に比べればゼロに等しいから、当然に日・清・露三国の勢力角逐場となった。そこを日本は、日清・日露の両戦役を勝ち取った余勢を駆って朝鮮を手に入れた。これに対して、現代人が今の国際規約や国際慣習の尺度で当時を裁くのは不当である。
 当時、日本の海軍はロシアのバルチック艦隊を日本海に迎えて全滅させている。日露戦役当時、仁川の沖合には日本やアメリカ、ロシア等の軍艦が常時出没していたが、韓国には海軍もなければ軍艦もなかったとのことである。
 もし韓国が中国やロシアの植民地になったと仮定するとき、韓国の政治や経済の発展は今中国吉林省内の朝鮮族自治州、あるいは中央アジアのカザフスタンやウズベクスタンに在住する高麗族の末裔にしか達し得なかったであろう。それよりは日本の植民地になった方がよかった、というのが僕の歴史認識である。
 今なら世界のいかなる強大国家でも、いかなる弱小国家をも植民地にすることはできないばかりか、植民地化したが最後、そこの住民の生活を保障しなければならない羽目に陥ることは必然である。ゆえに、ある弱小国家が願ったとしても、まともな民主国家なら、おいそれとこれを引き受けるわけにはいかないであろう。

・文明開化が進み、生活水準が向上
 では、植民地化された朝鮮の政治的・経済的・社会的・文化的状況はいかなるものだったのであろうか。
 日本の植民地期間は一九一〇年(明治四十三年)八月二十九日から一九四五年(昭和二十年)八月十五日までの三十五年間である。保護国になった一九〇五年(明治三十八年)十一月十七日からは四十年になる。
 合併当初から、一九一九年(大正八年)三月一日に起こった全国的な独立万歳デモ事件に至るまでは、朝鮮民衆による散発的な抵抗運動が続くが、同デモ事件以降、日本政府は同年八月に朝鮮総督を長谷川好道から斎藤実にかえ、朝鮮統治の原則を武断政治から文化〔文治〕政治に変更してから後は、朝鮮民衆による抵抗はとみに衰えた。
 軍事力も経済力も組織もない状態で感情的な抵抗を試みたところで、得るところが何もなかろうことは誰の目にもはっきりと見えていたのだ。
 当時の朝鮮は日本の植民地になったおかげで、文明開化が急速に進み、国民の生活水準がみるみるうちに向上した。学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信、電話等が建設され、僕が小学校に入るころ(昭和八年)の京城(現ソウル)は、おちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。
 日本による植民地化は、朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与えなかった。これはなんでもないように見えるかもしれないが、独立後の南韓〔韓国〕・北朝鮮における思想統制とそこからくる国民一般の恐怖感と比べるとき、かえって南北朝鮮人は終戦後の独立によって、娑婆の世界から地獄に落ち込んだのも同然であった。
 このような事実描写に対し、「非国民」あるいは「売国奴」呼ばわるする同胞も多かろうが、そういう彼らに対し、僕は一つの質問を投げかけたい。
 日政〔日本統治〕時代に日本の官憲に捉えられて拷問され、裁判にかけられて投獄された人数及びその刑期と、独立後に南韓または北朝鮮でそういう目に遭った人数とその刑期の、どちらが多く長かったであろうかと。」(p7ℓ1~p10ℓ10)
 
「・人口は二倍、貿易額は四十倍に
 日本植民地時代の三十五年間に、朝鮮の人口は確実な足取りでほぼ二倍に膨れ上がっている。これは何を意味するのか。

               朝鮮人人口     百分率
   1910(明治43)年   1312万8780人    100.0%
   1922(大正11)年   1720万8139人    131.1%
   1934(昭和 9)年    2051万3804人     156.3%)
   1942 (昭和17)年    2552万5409人    194.4 %
   1945(昭和20)年   2900万人(推定)   220.9%(推定)
 
 これにはいろいろな要因が考えられる。①疾病の予防ならびに医療制度の向上、②豊富とは言わぬまでも食糧の普遍的供給、③総督府の誠実な農村振興ならびに治山治水政策の奏功、④産業化への離陸、というのが僕の推測である。
 この中でも、実業家で後に野口財閥を形成する野口遵氏が、咸興に隣接する興南に建てた朝鮮窒素肥料会社〔硫安の生産力で世界有数、興南における科学コンビナートの中核〕の貢献は特筆に値する。
 野口氏は一九二五年(大正十四年)から五年の歳月を費やし、咸興の北にある鴨緑江上流を堰き止め、日本国内にもなかった三十七万キロワットの巨大発電所を作る。それに続いて白頭山、豆満江などに各十五万キロワットの発電所を建設した。彼はこの電力を利用して空中窒素から硫安を作るなど、総合的化学工業化を果たしたのである。
 また合併当時(一九一〇年)わずかに六千万円だった貿易額が一九二四年には六億四千万円、一九三九年には二十三億九千万円と増加した(『朝鮮年鑑』一九四三年版)。
 朝鮮に政争も腐敗も弾圧もない、こにょうな天下泰平の時代が、かつてあっただろうか。

・戦後教育によって高まった反日感情
 今の若い連中は教科書や小説等の影響を受けて「当時の朝鮮人は皆、日本を敵国と見なし、ことあるごとに命を投げ出して独立運動をした。日本の特高が全国的に監視の目をゆるめず、多くの愛国者が次々と捕らえられて処刑された」という自己陶酔的な瞑想に耽っているが、これはウソである。
 植民地時代をうすうすながら思い浮かべることができる年齢層は、終戦当時十五歳に達していた、今は七十三歳以上の老人達である。それ以下の朝鮮人は他人から聞いて、あるいは学校で教育を受けて反日感情に走っている。
 韓国人にとって、反日感情はいかにも勇ましく愛国的でカッコがいい。この反日感情が全国を風靡しているので、老人達がそういう国民的合意に逆らう発言をすれば窮屈な思いをする。そのうちに大勢に押されて、逆に加勢するようになる。今や老いも若きも、日本に対する罵声が高ければ高いほど愛国者と遇されるのである。(二〇〇三年記。『史』誌同年十一月号に掲載)」(p12後ℓ3~p14最後)
 

○「親日派のための弁明」金完燮著荒木和博・荒木信子訳(思草社 2002年)

「こんにちの韓日関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないかということです。終戦後、韓半島〔朝鮮半島〕を占領した米軍とソ連軍は、日本軍を武装解除し、朝鮮にいた日本人を着の身着のまま追放したのち、それぞれが自分の操り人形を前面に押し出して韓国と北朝鮮という国をつくりました。その後、韓国と北朝鮮を統治した李承晩と金日成は、ともに強烈な反日指向をもつ人物です。
 こんにち年配の人たちの話を聞くかぎり、総統府時代の朝鮮人は日本人としてのアイデンティティをもちながら、かなり満足して暮らしていたと考えられます。いまの基準でみれば、当時の暮らしが豊かであるとか満足すべき水準にあったとはいえないでしょうが、すくなくとも朝鮮人にとって、総督府は李王朝より一歩すすんだ統治者であった。
 ところが、日本が戦争に敗れ、米軍とソ連軍が進駐してくると世の中が変わりました。総督府時代にはたんなる犯罪者にすぎなかった人びとが、自分は秘密組織で活動していた独立運動家だと名乗り、日本人と親しくしていた人びとが日本に敵対的な態度をとるようになりました。さらに、それまで独立運動家という「職業」をもっていた人びとが海外から帰国すると、政治の主導権はあっというまに独立運動家ににぎられました。
 韓国と日本はアメリカに占領された状態で、実質的にはアメリカの植民地としてすごし、一方アメリカは日本を再興させてはならないという意志をもって、韓国において強力な反日洗脳教育をおこなうと同時に、産業面においては韓国を、日本を牽制するための基地として育てました。その結果、韓国にIT産業、造船、鉄鋼、半導体など日本をコピーしたこんにちの産業行動がつくられたといえます。そしてこうしたことの背後には、有色人種を分割したのちに征服するという「ディバイド・アンド・コンカー(divide and conquer)」の戦略があったと思われます。私は、戦後アメリカの東アジア政策は、さまざまな点で私たちに友好的とはいえなかったと考えています。
 反日感情を意図的につくりだすうえで基本となったのが、歪曲された、まちがった歴史認識です。韓国人は幼いときから、学校や家庭で、あるいは社会をつうじて、さまざまなやり方で捏造された歴史を学びます。これによって、ごくふつうの韓国人は「総督時代とは。あらゆる韓国人が日本人の奴隷として生き、搾取されて死に、追い出された時代だった」という認識をもつにいたります。その一方で、朝鮮は平和を愛する国で、人びとは幸せに暮らしていたのだと教えられますから、結局、日本は幸せに暮らしていた朝鮮人を侵略し搾取し困らせた仇ということになるのです。
 韓国にこうした反日教育をおこなわせたアメリカは、韓国と日本の関係をユダヤ人とドイツの関係とおなじものにしたかったのだと考えられます。しかし、かつてのナチスのように日本が韓国人を苦しめたとは思えません。そえどころか、実際はまったくその反対だったようです。」(p2ℓ11~p4ℓ5)
 
 「ふつうの韓国人がもつ反日感情の根底には、日本統治時代、朝鮮が多くの損害を受けたという被害者意識がひそんでいるようだが、日本人のほうは多くの恩恵を与えたと考えている。このようにおなじことについての認識がたがいに異なっているために、韓国と日本のあいだには深い感情のみぞが生じることとなった。韓国人にひろがっている反日感情の根本には、歴史学者たちによいる恣意的な捏造と歪曲があり、これにもとづいた強力な反日教育と民族イデオロギー策動がある。
 一九〇五年以降、日本にとって朝鮮は植民地というより拡張された日本の領土という意味合いがより大きかったと思われる。当時、日本人は朝鮮と台湾を統治するにあたって、おおむね本土の人間とおなじ待遇を与えた。特に朝鮮に対しては、大陸への入口という地政学上の重要性のために、むしろ本土以上の投資をおこない、産業施設を誘致するなど破格のあつかいをしたと考えられるのである。
 ヨーロッパ列強にとっての「植民地」が遠く離れたところにある農場を所有するようなものだったとするならば、日本にとって朝鮮と台湾の統治は、隣の店舗を買いとって店を拡張するような行為だったといえる。韓国人の反日感情は、この点にたいする誤解からはじまっている。
 ある人がソウルに住みながら、遠く離れたオーストラリアやニュージーランドに農場を所有していたとしてみよう。その人は現地に一定の投資をして収益をあげることだけに関心をもつだろう。しかし、自分の住まいであり職場でもある商店を経営する貧しい商人が、苦労して隣の店を購入することになったら、その人は新しく手に入れた店を一所懸命改装し、すでにある店とあわせて相乗効果を得ようとするだろう。十九世紀末に台湾を、二〇世紀初めに朝鮮を併合した日本の立場は、まさにこのクモンカゲ〔街角にある食品、飲料、日用品などを売る小さな個人商店。クモンは穴の意〕の主人のようなものだった。
 そうであるなら、日本が朝鮮を開発し発展させたことについて、「豚を育ててたべるためだった」とか「大陸侵略のための兵站基地とするのが目的だった」といって、韓国人みずからその意味を貶める必要はないだろう。日本が朝鮮を開発することが、たとえ長期的な収奪や兵站基地確保のためだったとしても、それがすべてではなかった。朝鮮にきて苦労して農地を改良し、事業を興した日本人のなかには、朝鮮に近代文明を伝播し、朝鮮をすみやかに開発して日本とおなじ水準に引きあげ同化しようという、よき意図をもった人も多かったはずだ。
 したがって、かつて日本が朝鮮に向けた善意をあるがままに受けとったなら、韓国人が日本にたいして悪い感情をもつことはなくなるだろう。すなわち韓国人のなかにある反日感情は、韓国政府の意図的な歴史の歪曲からはじまったものである。私は、歴史を歪曲しているのは日本ではなく韓国だと思う。これは国際社会の一般的な見方でもある。
 私たちは歪曲された教育によって、韓日保護条約(一九〇五年)とか韓日併合(一九一〇年)が日本の弾圧によって締結されたものであると信じているが、事実はまったくちがう。日本と合併することだけが、朝鮮の文明開化と近代化を達成できる唯一最善の道であった点については、当時朝鮮の志ある改革勢力のあいだに暗黙の合意があったと思われる。この大韓帝国内部の強力な世論にしたがい、日本が合法的な手続きを経て統治権を摂取したとみるのが妥当ではないだろうか。
 そのもっとも有力な証拠が一九〇四年に結成された「一進会」である。この団体はわが国の歴史上初の近代的な大衆政治組織であり、「東学」〔一八六〇年ごろおこった民間宗教〕と「独立協会」〔一八九六年に組織された政治結社〕が連携して、朝鮮王朝と守旧勢力 を倒し、日本と連携して文明開化という時代の要請、つまり朝鮮革命をなしとげるために結成された。しかしこのような事実は韓国社会では徹底して隠蔽され、韓国政府は一進会について、日本が少数の親日派を糾合して結成した「御用エセ団体」と歪曲して教えている。
 一九〇四年初めにおきた日露戦争で、東学教徒たちは教主孫秉煕[ソンビヨンヒ]の指示により五万の兵士が日本とともに戦った。東学教徒と褓負商[ポブサン]〔行商人、古くから組織され、政治的・社会的に影響力があった〕たちは「進歩会」を結成し、最初の年だけで三八万の人がこれに加わっていた。進歩会はその後名称を一進会と変え、独立協会系の開化派人士と手を組んで、韓日併合と開化啓蒙運動を展開したのである。一時期は一〇〇万をこえる膨大な組織となったかれらは、黒い服を着て髪を短く刈る外見から、たやすく見分けがついたため、保守勢力の攻撃の対象となった。
 一進会は結成いらい、日本との合併を推進し、それによって反革命勢力との内戦で多くの一進会員が殺され、一進会関係の建物が破壊されるなどの犠牲を払わなければならなかった。こんにち韓国で一進会を「親日団体」だと非難し、彼らに危害を加えた反動暴徒を義兵と褒めたたえることは、歴史を逆さまに解釈する過ちといえる。
 みずから韓日保護協約締結を主導し、朝鮮の初代統監となった伊藤博文は、政治的、財政的に日本の負担となる朝鮮合併を望んでいなかった。合併は一進会など朝鮮の革命勢力が要請したことであった。安重根の伊藤統監暗殺により日本の世論が急速に合併に傾いていったのだから、安重根は自分が望むのとは反対の「愛国」を実現したわけだ。
 日本の統治により朝鮮は多大な発展をとげた。三〇年余りのあいだに一〇〇〇万足らずだった人口が二五〇〇万にふえ、平均寿命は二四歳から四五歳にのび、未開の農業社会だった朝鮮は短期間うちに近代的な資本主義社会へと変貌した。本土からは優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが建設された。一九二〇年代には日本への米輸出で財をなした大金持ちがつぎつぎとあらわれ、その基礎の上に民族資本が成立することとなった。
 一九二〇年代の朝鮮文芸復興は、日本とおなじ時期におきたものであり、こんにち、李光洙と崔南善にはじまり、金東仁、李孝石、金永郎、尹東柱、洪蘭坫など私たちの記憶に残る多くの作家と芸術家は、大部分がこの時期に登場した人たちだ。
 韓国人はこうした日本の貢献を認めようとせず、かりに認める人であっても、それが日本という外国勢力によって他律的に生じた成果だという理由で、その意味を過小評価している。しかし、ふりかえってみると朝鮮は、人類の歴史上唯一無二の儒教原理主義社会であり、その戒律は、こんにちのイスラーム原理主義とは比較にならないほど精緻かつ厳格なものだったといえる。したがってこんにち、イスラーム原理主義がイスラーム社会に与えている悪しき影響についてすこしでも考えがおよぶ人であれば、朝鮮の儒教原理主義が、外国の影響が排除された状態で自発的に消滅したといえないはずだ。
 二〇世紀初め、外国の勢力による改革、それも日本統治による徹底した精算がなかったなら、こんにちの朝鮮半島は世界でもっとも遅れた地域のひとつにどどまっていただろう。となれば、日本時代は私たちにとって幸運であり祝福であったということはできても、忘れたい、あるいは認めたくない不幸な過去だといえるはずないのである。」(p13後ℓ2~p17後ℓ2)
 

○「マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人!」目良浩一・井上雍雄・今森貞夫著(桜の花出版 2012年)
 
 「日本の台湾や韓国の併合には、明らかに特色があった。それは併合された地域を内地と同等に扱い、住民に教育を平等に受けさせ、又インフラストラクチャーを整備して、産業の振興をはかったことである。それは同化であって決して植民地化ではなかった。にも拘わらず、いまや日本人までもが植民地化と呼ぶのだから無知とは恐ろしいものである。独立後の韓国は、「日本統治下にあった朝鮮では日本人による『搾取』『迫害』『「虐殺』『抑圧』『弾圧』しかなかった」と教えているが、それは根本的な間違いである。無知である。否、捏造と洗脳でしかない。その頃の事情に詳しい著述家の黄文雄は、日本の統治は、内地から政府支出の15%から20%を補助金として朝鮮の統治に当てたことによって行政がおこなわれ、以下のような歴史的貢献があったとしている。
 1.中国により半島に幽閉された千年属国の解放
 2.国土改造から生態系に至るまでの更正
 3.優生学的環境改善からの民生向上
 4.堅牢たる伝統的階級制度からの奴婢の解放
 5.絶滅しつつある朝鮮伝統文化の保護と再生
 6.半島の民力を超えた近代的社会基盤の構築
 7.韓国・朝鮮民族の育成
すなわち、1910年またはそれ以前からの日本政府の行政によって、1945年までの朝鮮半島には近代国家となるべき基礎が充分に構築されていたのである。
崔基鎬の『朝鮮併合』によれば、当時朝鮮を統治していた朝鮮総督府は、併合以前には100校しかなかった小学校を1944年までには5213校に増やし、大阪帝大の7年前に京城(ソウル)に京城帝国大学を設立した。鉄道に関しては、1910年の合併時までには1039キロの路線が日本からの資金一億円で完成していたが、1945年までには、実に2億6千万を投じて6632キロに延長されていた。
 農業においては、農会、金融組合、産業組合の設置をして、その近代化を図り、治山治水事業を行ない、その結果、耕作地は246万町歩(244万ヘクタール)から434万町歩(430万ヘクタール)に増大し、米の収穫量は倍増した。大型水力発電所の建設も行われた。このような政策に支えられて、朝鮮半島の人口は、1910年の1千312万から、1942年には、2千552万へと増加したのである。
 この点に関しては、「漢江の奇跡」といわれる驚くべき経済成長を成し遂げた基礎を作った朴正煕大統領が、訪韓した福田赳夫首相に酒席で伝えたとされる発言が示唆に富んでいる。日韓の閣僚達が日本語で会話をしている最中に、韓国側のとある高官が植民地統治を批判する旨の発言を始めた。
 この時朴大統領は、「日本の朝鮮統治はそう悪かったとは思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で従来なら学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。一生懸命頑張ったので成績が良かった。すると日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、主席で卒業することが出来た。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本の統治も私は感情的に非難するつもりはない。むしろ私は評価している。」と語り、批判的発言をした韓国高官をたしなめた。戦後間もない1960代の指導者で直接に日本の統治を経験した韓国人がこのような印象を持っていたことは、当然と言っても過言ではない。」(p165ℓ10~p167ℓ11)
 

○「世界史に躍り出た日本」渡部昇一著(日本の歴史5明治篇」/ワック 2010年)

「日清戦争において、日本は台湾を清国から譲渡されて統治していたわけだが、台湾とコリアとではまったく事情が違う。なぜなら、当時の台湾はいわゆる“瘴癘(しょうれい)[伝染性の熱病]の僻地”であって、統一民族としての歴史もなく、住民も少ない。そもそも清国が日本に譲渡する気になったのも、台湾という島に対して所有権を感じるところがなかったからである。
 台湾を日本に割譲した清国の李鴻章も、「日本はとんでもないガラクタを背負い込んだことに気づくだろう」と言っている。『ロンドン・タイムズ』も、「台湾は方々からの犯罪者の逃げ場所であり、風土病もひどく、オランダやフランスなども植民地にしようとすればできたのにしなかった島である」という主旨の記事を書いている。
 台湾は、こうした事情があったので、統治するに当たっては、国際的に問題の発生しない場所であった。実際、日本は台湾に対して、理想的といえるほどの統治をしたと言ってもいいであろう。
 現在の台湾の繁栄があるのも、元を質せば、日本がこの島を統治したからである。台湾に対して、戦前の日本が積極的に公共投資を行い、近代的教育を普及させ、産業を興し、インフラを整備しなかったら、戦後の台湾の繁栄はもっと遅れていたであろうということは、台湾人の学者でも認める事実である。例の『ロンドン・タイムズ』も、「日本は台湾のために惜しみなく金を注ぎ込み、住みよい島にしたので、日本の統治以来、十年間に六十万人の人口増加があった」と指摘している。台湾に行った日本人たちも、この地を本当に日本と同じ水準に高めようという使命感を持っていた。
 これに対し、ヨーロッパの植民地帝国で、その植民地を自国と同じ生活水準、文化水準に高めようと努力した例は皆無である。
 戦前、すでに台湾人の中から貴族院議員も出ていた。インド人やビルマ人からイギリスの上院議員が出たという話は聞いたことがない。アメリカが、原住民のインディアンの酋長を州知事や上院議員にする配慮を示したことはない。そして日本は金のかかる帝国大学を名古屋より前に台北に建てた。
 十数年ほど前、PHP研究所が『Attiude to the Law 』という題名の英文雑誌を発行していたが、その中にアメリカのマーティン・ロスというジャーナリストが台湾に行って、日本統治時代のことを調べた記事が載ったことがある(”Taiwan looks to Japan for the good life")
 どうも、このジャーナリストは当初、日本人が台湾人に対して、どのような悪辣な植民地統治を行ったかを暴くつもりであったようである。ところが、実際に台湾で当時のことを知る人たちにインタビューしてみると、みんな「日本人がいたころはよかった」と口を揃えて答えるのだ。「今では夜になれば鍵を閉めて寝るけれども、戦前はドアを開けて寝ていても大丈夫だった」というような話しか出ない。それで、結局、この米人記者は当初の目論見とは反対の、「日本時代はよかった」という記事を作ったということであったが、その当時においても台湾では日本統治を恨むような声がなかったのだ。」(p227後ℓ5~p229)


○「裏切られた自由  フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症(下)」 ハーバート・フーバー著ジョージ・H・ナッシュ編渡辺惣樹訳(草思社 2017年)

 フーバーは、第31代アメリカ大統領(任期1929年-1933年)で1964年死去。

 「朝鮮は記録では二〇〇〇年の歴史がある。統一王国ができたのは六六九年である(訳注:百済は六六〇年、高句麗は六六八年に新羅によって滅ぼされた)。何世紀にもわたって朝鮮は中国に従属した。一八九五年、清との戦いに勝った日本は、朝鮮の清国からの独立を確保した。一〇年後の一九〇五年、日露戦争の戦勝国日本は朝鮮を軍事的に占領し、一九一〇年に正式に併合した。日本の占領は、一九四五年八月の日本の敗戦で終わった。
 私(フーバー)が初めてこの国を訪れたのは一九〇九年のことである(編者注:原稿は一九一〇年となっているが修正した)。日本の資本家に依頼され、技術者として助言するためであった。当時の朝鮮の状況には心が痛んだ。人々は栄養不足だった。身に着けるものも少なく、家屋も家具も粗末だった。衛生状態も悪く、汚穢が国全体を覆っていた。悪路ばかりで、通信手段もほとんどなく、教育施設もなかった。山にはほとんど木がなかった。盗賊が跋扈し、秩序はなかった。
 日本の支配による三五年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した(revolutionized)。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設、そして民家も改良された。衛生状態もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場(訳注:朝鮮窒素肥料)が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿げ山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。
 朝鮮人は、日本人に比較すれば、管理能力や経営の能力は劣っていた。このことが理由か、あるいはもっと別な理由があったのか確かではないが、経済や政治の上級ポストは日本人が占めた。一九四八年、ようやく自治政府できた。しかし朝鮮人はその準備がほとんどできていなかった。」(p363-364)

○「台湾 朝鮮 満州 日本の植民地の真実」黄文雄著(扶桑社 2003年)
○「全訳―現代文 日本書紀 上下」宇治谷孟訳(創芸出版社 1986年)

平成27年10月10日作成   令和3年8月15日最終更新  第106話