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「歴史問題の問題 その3」は、「奇跡の明治維新」についてです。
 
 東亜百年戦争の初めは、明治維新による奇跡の日本防衛です。明治維新の成功なくして、東亜百年戦争そのものが成り立ちません。欧米の植民地支配にたった一国で挑戦し、自国を犠牲にして結果として百年かけて目的は達成し人種平等に大きく貢献したということはあり得ませんでした。ところが、歴史教科書は、明治維新を否定的に描いています。特に明治天皇の役割については無視しています。このことを取り上げたいと思います。

 1853年のペリーの来航による開国の要求に対して、江戸幕府は武家政権だけに、彼我の戦力の差を冷静に判断し、中国や韓国のように攘夷路線に政府をあげて取り組むのではなく、開国を判断しました。
 倒幕を目論む長州及び薩摩藩は、初めは、攘夷の姿勢を貫き、薩摩藩は、薩英戦争(1863年)を戦いました。長州藩は、四国艦隊下関砲撃事件(1864年)を経験しました。両藩とも攘夷による武力闘争が不毛であることを経験しました。同時にイギリス・フランスを初めとする列強は、武士の存在する日本の強さを実感し、早々と武力征服をあきらめました。両戦争は、薩摩・長州の敗北であると自虐史観では喧伝されていますが、日本の勝利または引き分けというのが正しい結果の判断です。
 薩摩・長州の志士の(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・高杉晋作など)の判断は、西欧に学ぶ近代国家を作らなければならないということでした。イギリスは薩摩長州藩などの雄藩連合政権の実現に向かって支援を申し出でます。
 幕府を率いる第15代将軍の徳川慶喜も同様でした。特に軍事の近代化をめざし、軍艦を発注し、鉄砲や大砲などの調達に余念がありませんでした。フランスは幕府を支援していました。
 イギリス・フランスは、他のアジア諸国のように、内乱を誘発してそのすきに植民地化を目論んでいましたが、幕府も薩長雄藩連合政府推進派も、今は国内で争っている時ではないという大前提の判断力を持っていました。自分たちの利害よりも日本国を愛する気持ちが強かったのです。明治維新という政権交代において矜持をもって両国の介入を許しませんでした。
 
 自分の先祖を肯定的に捉えられると言うことは、子孫にとって困難に遭遇したときに自信をもたらすことができます。先例を規範として行動することもできます。民族の歴史を継承することは、いざというときの指針となるということです。
 
 江戸幕府から明治維新への無血革命を成し遂げたのは、古事記にある先例でした。
 鳥羽伏見の戦いに始まる新政府軍と幕府軍との戦いはありましたが、フランス革命、ロシア革命など西欧の革命は、多くの血が流され、前政権の担当者は、軒並み処刑されるとうのが通例でしたが、日本ではそうはなりませんでした。肝心の徳川慶喜は、「好譲不争」の精神を発揮し、自らを中心とする公武合体政府を樹立することに失敗した上は、明治維新政府に政権を平和裏に譲ることを望んでいました。明治維新政府は、このことを理解し、国家分裂・植民地化を防いだ明治維新の最大の功労者であると評価して公爵という地位を与えました。ヨーロッパ諸国ではありえないことでした。
 水戸藩出身の慶喜は、歴史に精通し古事記にある「大国主命の国譲りの神話」の歴史の先例に学んだのでした。
 大国主命とその後継者である事代主命は、天照大神の国譲りの要求にたいして戦うことなく、政権を譲ります。事代主命は、責任をとって海に身を沈めますが、大国主命は出雲大社に祀られることとなります。この国譲り神話の実際は、神武天皇に国譲りをした歴史をベースにしています。
 また、明治維新の政治方針は「五箇条の御誓文」ですが、これも神武天皇の建国の精神「八紘一宇」の精神に基づくものでした。薩長両藩や岩倉具視などの明治維新の志士たちにとっても古事記・日本書紀などにもとづく神武建国はよく知られていました。

 元に戻ります。様々なダイナミックな歴史の動きがありましたが、江戸幕府が倒れ、明治新政府ができるのは、1867年12月9日の「王政復古の大号令」とその夜の小御所会議の決定でした。その会議後に出された声明文にも、歴史(神話)に学んだことが判ります。
 西川誠による「王政復古の大号令」の大意を以下にあげます。

 「内大臣徳川慶喜が、これまで委任されていた国政を朝廷に返し、将軍職を辞すると申し出てたが、このたび天皇は確然と御許可になった。そもそも嘉永六年(一八五三年、癸丑、ペリー来航の年)以来の国家の危機に対して、孝明天皇が毎年のようにお心を悩ませておられたことは、人々の知るところである。これによって天皇は、「王政復古」を行い、国の威信を回復するという基礎をお立てになったので、今後の摂政・関白・幕府などは廃止し、まずしばらくは総裁・議定・参与の三つの職を設置し、種々の政務をおこなわせることになる。すべての事は「神武創業」すなわち神武天皇の国家創造時にもとづいて(※諸事神武創業ノ始メ二原ツキ)、上級公家・武家・堂上・地下の区別なく、正統で公平な議論をつくし、世の中の人々と喜び悲しみを共にしたいという天皇の御意志である。」(※2)

 こうして、明治維新が始まりました。その後の歩みは、山川の歴史教科書(※3)でも「明治政府が、列強に範をとった近代国家化につとめ、憲法・軍隊・議会など、近代化の指標となるしくみを20年ほどでそろえるに至った。」とあります。
 欧米列強の圧力の中で、20年で封建制を廃止し、近代国家を成し遂げたのでした。このようなことを、このような短期間で成し遂げた国はありません。手本としたイギリス・フランスでも200年300年かかってなしえたことでした。世界史上でコロンブスのアメリカ大陸到達、イギリス革命、レパント海戦によるオスマントルコの敗北など数百年に一度の世界史的大事件であるにもかかわらず、過小評価しています。まるで軍国主義の出発であるというような取り扱いです。この歴史に共感をしめす歴史教科書は日本には、殆どありません。
 1869(明治2)年1月の版籍奉還、1871(明治4)年の廃藩置県一つとっても、大名の租税徴収権を剥奪し、明治政府が一元的に租税徴収権を掌握した事件ですが、このようなことは、武士たちの自己犠牲なしにはなしえなかったことでした。
 明治憲法、議会、教育制度、近代軍の創設など、全てが世界史上の奇跡ですが、歴史教科書には「でもしかし」という否定的精神でつらぬかれています。
 明治維新の主役は、神武天皇以来の伝統に根ざした明治天皇の存在でした。天皇がおられるからこそ、徳川幕府は天皇に武家政権を七百年ぶりに平和裏に返還することが出来たのでした。そして、明治天皇は明治維新政府の精神的支柱となりました。しかし、その主役たる明治天皇についてほとんど触れられていません。山川の歴史教科書(※3)でも欄外の注にある「1868年(明治元年)8月には、明治天皇(位1867年〜1912年)が即位の礼をあげた。」と「1912(明治45)年7月、明治天皇の死去にともない、大正天皇が即位した。」とあるのみです。お写真もありません。これで日本の歴史教科書といえるのでしょうか。すべては、GHQの占領時代に、天皇の事に触れるときは、悪事・争いのことしか触れてはならないというWGIP(War Guilt Information Program)のままの記述で変わっていません。
 平成27年2月に、一宮市立中学校の校長が、建国記念の日の紹介として、神武天皇の建国、仁徳天皇の徳政などをブログで触れました。日本の神話(日本の歴史)を伝えようとしたのです。その文章に批判されるべきところはありません。しかし、科学的合理性がないという強烈な反対によって削除されました。
 もうそろそろGHQのWGIPの呪縛から逃れるときではないかと思います。しかし、このブログが出るということ、そしてその賛同者が多くいるということは、戦後70年の歴史の断絶を取り戻す時が訪れているように感じます。

参考図書

○「世界の偉人たちが語る 新版日本賛辞の至言33撰」波田野毅著(ごま書房 2008年)

「ペリー提督日本遠征記
 実用的、機械的技術において日本は非常に巧緻をしめている。(中略)かれらの手作業の技術の熟練度は素晴らしい。日本の手工業は世界のいかなる手工業者にも劣らず練達である。よって国民の発明力が自由に発揮されるようになったなら、最も進んだ工業国に追いつく日は、そう遠くはないであろう。他国が発展させてきた成果を学ぼうとする意欲が盛んで、学んだものをすぐ自分なりに使いこなすことができる。だから、国民が、外国との交流を禁止している排他的政策が緩められれば(いわゆる鎖国施策)、日本はすぐに、最も恵まれた国の水準まで達するであろう。文明世界の技能を手に入れたならば、日本は将来きっと機械工業の成功を目指す強力な競争国となろう。」(54頁〜55頁)

○「世界の偉人たちの驚きの日本発見記」波田野毅著(「日本の息吹ブックレットD」明成社 平成20年)
「ドナルド・キ―ン
明治天皇の伝記を書き始めたときに、どのように書くか、私に決まった態度はありませんでした。しかし調べが進むにしたがって、明治天皇という人物に感心するようになる。そして最終的には。当時の皇帝の中で世界一の存在だった。ゆえに明治大帝と言ったほうがいいのではないかという結論に達したのです。
出典「明治天皇を語る」新潮社」(42頁)

「明治天皇
明治の怒涛の荒波は、明治天皇がおられたがゆえ、乗り越える事ができました。しかしその素顔は意外に知られていません。キ―ン氏が「大帝」と尊ぶ明治天皇は、一体どのようなお方だったのでしょうか。
明治6年(1873年)、皇居は火災にあい灰燼に帰します。新皇居建設が急務と側近は考えますが、「自分の居室の為に人民を苦しませてはならない」、と天皇は厳しい財政事情を考えられ、お許しにならず、結局、仮皇居で十数年間をお過ごしになります。
日清戦争時、明治天皇は大本営の広島にお移りになりました。住まいは粗末な木造二階建て。机・椅子等数点の他に家具はなく、壁には八角時計のみ。あまりに殺風景なので壁に何か掛けることを側近が献言しますが、天皇は一線にいる軍人達には絵などない、とお断りになります。安楽椅子や暖炉を勧められても「戦地にこのような物があろうか」、と固な辞されます。手狭ゆえに増築が提案されますが、「出征将卒の労苦を思えば不便などない」。
 全国に別荘がありましたが、一度もお行きになりません。寒暑に人民が立ち働いている中、ご自分だけゆっくりなされる事には、ご自身がお許しにならなかったようです。楽や贅沢が、できるお立場なのに全くなされませんでした。
キ―ン氏が特に強調する事は、明治天皇は十分な権力をおもちであったにも拘わらず、それを行使されなかったという点です。権力を持てば行使したくなります。現にロシアやドイツの皇帝は恣意的で我儘な命令が多い。しかし天皇は、特に軍に関しては最高権力者ゆえ、人事・戦略に権力を行使しようと思われれば、できたものの、全くなされない。
 明治天皇は、無私の心で国民の事を考えられ、日本と世界の平和を思われた、世界史上に傑出した正真正銘の名君であられました。
 今の日本がこうしてあることに、明治天皇に衷心より感謝の念を捧げたいと思います。
引用出典 「明治天皇 上下巻」新潮社 」(43頁)」

○「続・世界の偉人たちの驚きの日本発見記」波田野毅著(「日本の息吹ブックレットF 明成社」 平成21年)

「ライシャワー
 十九世紀の半ば、圧倒的な欧米の経済力、軍事力に直面したとき、日本人はひとりして自分の利益のために外来者と手を組んで、同胞たる日本人に敵対しようとはしませんでした。日本が経験したのと同じ危機や災厄に直面した他の開発途上国の指導者の多くは、彼らの同胞の犠牲において巨額の個人資産を海外につくり上げましたが。このような行動に出た日本人は一人もありません。
出典「ザ・ジャパニーズ・トゥデイ」文芸春秋」」20頁

「明治維新にみる日本と諸外国の心性の相違
 明治維新は日本にしかできなかった傑出した革命でした。ライシャワーは、19世紀の日本と他の非欧米諸国の歴史を比べると、欧米からの衝撃は一緒であったにもかかわらず、日本ほど速やかに巧みに、欧米の経済・軍事技術に対処した国はなく、中国やアジア諸国とは全く異なって非凡さが際立つ、とします。維新の成功原因は、つまり、欧米からの衝撃という外的要素ではなく、日本の内的な面によるというのです。
 なかでも特筆するのは、日本人が私心を持たない事。いかにこれが稀有で驚きの対象だったか、ライシャワーは表記の他にも別の言葉で繰り返し述べる程です。
 自らの特権を犠牲にして維新をやり遂げた事も偉大。英国の歴史学者トインビーは、「彼ら、ほとんど崇高といってよいほどの、高い自己抑制の境地に到達した。(中略)日本が独立を維持してゆくためには、自分たちが犠牲をはらわなければならないと確信し、みずからの特権を国の将来を思い、なげうったのです。
 ベルツは明治22年の明治憲法発布の式典の際、慶喜の次期将軍予定者であった徳川家達公が参列しているのを見て驚きました。維新の敗軍の将が、現政権担当の明治天皇と一緒に式に参列しているからです。西欧では考えられません。西欧では敗者の方は、多く非情な運命が待っているからです。フランス革命しかりロシア革命しかり。中国の同様で、王朝交代の時は、恐ろしい事に、人口が数千万人減るほどの容赦ない粛清が待っていました。この点、日本の場合、一旦負ければそれまでで必要以上の血は流しません。賊軍となった旧幕府側でも、勝海舟や榎本武揚など多くの人材が明治政府に登用されています。
 敗者を許す寛大で大らかな心と、自己を顧みず私心なく国のために尽くす精神、この二点は、西洋や中国とは決定的に違う日本人の美徳といえましょう。
引用文出典「世界の名著61」中央公論社」(21頁)

○「大東亜戦争肯定論」林房雄著(夏目書房 2001年)

「福沢諭吉と徳川慶喜
 再びくりかえす。明治維新は日本人が外国の謀略におどらされたとことに成立したのではない。朝廷側はもちろん、幕府の首脳部もまた、これを阻止し拒絶したところに成立したのだ。
 福沢諭吉は慶応二年(※1866年)に幕府に建白している。福沢は、大君(徳川将軍)のモナルキー(絶対王制)のほかには現状打開の道なしという見地から、「外国の兵御頼みに相成り、防長二州を御取消し相成り候より仕り度り」と新将軍徳川慶喜に上書した。 福沢諭吉を民主主義の開祖に祭りあげるのは戦後の流行だが、明治維新の前後には民主主義者などというハイカラなものは一人もいなかった。啓蒙家福沢諭吉もまだモナーキスト(絶対王制論者)であったのだ。といっても、彼の不名誉にはならない。彼は「外国軍隊を借りても長州藩を取消してしまえ」と言っているが、日本をつぶせちは言わなかった。彼は幕府を中心とする日本統一を構想していた。従って薩長中心の「藩閥政府」成立にはそっぽをむいて、在野の立場を守りとおしてのであるから、その節操をうたがうわけにはいかない。彼もまた偉大な明治人の一人である。が、それは後の話であって、ここで注目しなければならないのは、福沢の「外国軍隊借用論」を徳川慶喜が取上げなかったおいう一点である。
 これも幕閣の「無能」や慶喜の「優柔不断」によって説明するのは説明にならない。「時の勢」というものがある。人間の知恵ではどうにもならないものの存在を、学者はときどき見落すものだ。「時の勢」にさからえば、賢者も愚者となる。「時の勢」と対決する時の人間は常に必死である。命をかけなければならぬ。命をかけた人だけが歴史をつくる。幕府方にも賢者は決して少なくなかったが、小笠原長行も小栗上野介も愚者として死んだ。俊才榎本武揚も大鳥圭介も五稜郭に籠城した時までは「愚者」であった。また、「時のい勢」のおもむくところを見抜き、これに従った藻のも、「奸物」と呼ばれ、「腰抜け」と呼ばれることがある。勝海舟は前者であり、徳川慶喜は後者であった。しかし、私はこの二人を幕府側の「賢者」と呼ぶ。海舟は賢者として行動すべく割と容易な立場にあったが、慶喜は最も不利で苦しい立場にあった。明治維新史における慶喜の「苦衷」を見落としてはならぬ。「大政奉還、江戸城明け渡し」の発案者がだれにあったにしても、これを採用し実行するのは、真の賢者にして始めてなし得るところである。
 慶喜が大阪城から江戸城に帰ってくると、ロッシェ公使は登城して謁見を乞い、しきりに再挙をすすめ、軍艦・武器・資金はすべてフランスから提供すると言った。慶喜はこれを拒絶し、「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令ことごとく行わる。たとい今日公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といわんには違反しがたき国風なり。されば、今兵を交えて此方勝利を得たりとも、万万一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名をまぬかれがたし。さすれば昨日まで当家に志をつくしたる大名も、皆勅命に随わんは明らかなり。よし従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、かくては国内各地に戦争起こりて、三百年前の兵乱の世となり、万民その害を受けん、これ最も余が忍びざるところなり」と、逆にロッシェをさとしている。
 ロッシェの謀略の路線は江戸城の奥深く食い入っていたが、慶喜は最後に自らの判断でこれを拒絶したという点が重要である。小栗上野介を先頭とする主戦論者はフランスの援助を当てにしていた。だが、彼らといえども、軍事的主導権を外国に渡すつもりはなかった。彼らも「幕人」である前に日本人であった。薩長仁におとらぬ愛国者であった。「錦旗と幼冲の天子をさしはさむ公卿と薩長の陰謀」とは戦っても、日本を分裂させて、トルコ、エジプト、インド、清国の二の舞を演ずることは心からおそれていた。
 ロッシェが幕府援助をつらぬきとおすことができなかったのには、フランス本国の事情もある。普仏戦争の危機がせまり、ナポレオン三世の政権は下り坂に向かい、外務大臣も更迭されてロッシェの対日政策は宙に浮いた形になってしまった。だが、慶喜はそのような事情を知って、ロッシェの最後的提案を拒絶したわけではあるまい。慶喜はフランスの運命ではなく、日本の運命を考えていたのだ。

岩倉具視の「全国合同案」
薩長側の「奸物公卿」と呼ばれた岩倉具視に「全国合同策」という手記がある。
「目今天下の禍患切迫の時に当り、国内に干戈を動かし骨肉相食むは、皆醜夷の術に陥るものなり、蚌鷸の争は遂に漁夫の利なり、兄弟相鬩ぐの隙に乗じ、醜夷の艨艟海を蔽うて来らば、何を以てこれを防禦せんや。・・・・・・君子小人、国内に紛争する時、多力の者は其党を樹て、寡力の者は外権を仮るは、古今の通患なり。外権を仮るとは外夷の力を仮ることにして、恐ろべく憂うべきなり」。具視はここで、唐宋元明の歴史を引用し、支那の各王朝が突厥、契丹の兵を借りたために亡国への道を開いた先例をあげ、「これ他邦の談として看過するべからず。もし今日我が皇国にして之に類することありとせんか、たとえば西国は墨夷(アメリカ)を引き、中国四国は英夷(イギリス)を引き、北国は魯夷(ロシア)を引き、東国は仏夷(フランス)を引き、遂にこれから諸夷の権力を仮り、相互に争いて攻伐せば・・・・・・金甌無欠宇内に冠絶する皇国は、犬羊に均しき外夷の管轄に属するに至らんこと明鏡の如し」
 慶喜の憂いもまた具視の先憂と同質のものであり、故にロッシェの提案を拒絶したのだという『徳川慶喜公伝』の解釈は正しい。歴史は素直に読むべきである。「舞台裏」ばかりのぞいていると、とんだ溝泥に落ちこむ。
 フランスが幕府をあやつり、イギリスが薩摩をあやつったのではない。「あやつる」という人形芝居用語をしいて使うなら、あやっったのはむしろ日本側である。もちろん、余裕をもってあやつったのではない。幕府も薩長も土肥も、ひたすらに日本の分裂と植民地化を恐れ、苦労し、精魂をつくして、外国の「援助計画」から危うく身をかわした。ロッシェは武器と借款の提供による幕府の直接援助を計画し、パークスはイギリス東洋艦隊の武力を楽屋裏にひかえて、舞台の上では薩長土肥を踊らせる「内面指導」を計画したが、幕府側も朝廷側もその手に乗ったように見えて実は乗らなかった。最後の土壇場に来ると、「日本」の名において、彼らの謀略を拒絶した。少なくとも身をかわした。
 「薩英戦争」と「馬関戦争」の苦い経験によって、武力による直接侵略をかきらめざるを得なかった英と仏は、「内面指導」による謀略戦みのまた失敗した、と言うことができる。彼らは不平等条約だけはおしつけることができたが、日本を分割支配して、これを植民地化することはできなかった。
 東洋の植民地化は十八世紀から二十世紀初頭にかけての「欧米列強の歴史的使命」であった。東洋の一小国日本はその「使命」の実現をあやうい土俵ぎわでくいとめた。「列強」は日本に関するかぎり、数十歩後退して漸攻戦法に出るよりほかはなかった。「大東亜百年戦争」はここにはじまっている。列強にとっても日本にとっても、それは百年戦争たらざると得なかったのだ。」(64頁7行〜68頁3行)


○「日本人の誇り」藤原正彦著(文春新書 平成23年)
○「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」竹田恒泰著(PHP新書 2011年) ※1;37頁
○「明治天皇の大日本帝国」西川誠著(「天皇の歴史07巻」所収 講談社 2011年) ※2;25頁後5行〜26頁7行
○「詳説日本史」笹山晴生 佐藤信 五味文彦 高埜利彦ほか10名著(山川出版社 2012年検定済 高校日本史B教科書) ※3;249頁・261頁・318頁
○「日本人はいつ日本が好きになったのか」竹田恒泰著(PHP新書 2013年)
○「国民の油断 歴史教科書が危ない!」西尾幹二・藤岡信勝著(PHP研究所 1996

平成27年02月27日作成   第102話