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「4.竹内文書について」のページの続きとなります。

 「竹内文書」は、富山の竹内家に伝わった文書です。竹内家六十六代の竹内巨麿が、公開した唯一無比の文書です。
 「古事記」は、1371・2年の真福寺本が唯一の写本として残っていたものが、江戸時代に印刷術の普及により爆発的に普及したものです。
 「竹内文書」が、昭和の初めの竹内巨麿の公開に始まるとしても偽書と断定するにあらないと思います。
 竹内文書の中に現代の世界の地名がスメラミコト家の皇子たちの名前として出てくることをもって荒唐無稽の検討するにあたらないという意見が主流ですが、私は、加筆や修正があったとしても本質的に真実を伝えるものであると確認される時が来ると確信します。世界各地に竹内文書を証明する証拠が隠されているということです。時がくれば発掘公開されるものと思います。
 
  ユダヤ教は、エジプトのアメンホテップ4世の新宗教アトン信仰とゾロアスター教の「神は光なり」とか「最後の審判」思想の合体であったことが知られています。
  ユダヤ教の宗教改革としてイエス・キリストが登場しました。イスラム教は、マホメットが唯一絶対神アッラーの神示をあつめたコーランが聖典です。このコーランには、マホメット以前の預言者として、モーゼやイエス・キリストを挙げています。イスラム教もまたキリスト教やユダヤ教の宗教改革といえます。預言者というのは、神の言葉を伝える使命をもった人ことです。

  また、古代エジプトの「死者の書」と仏教の閻魔大王による死後の裁きの類似性が見られます。元の原典があったのではないかと想像されます。

  大乗仏教は、キリスト教がインドに伝わって触発されて成立したのではないかといわれます。仏教の教祖である釈迦の説く輪廻転生原理は、キリスト教も共有するものでした。キリスト教は輪廻転生を553年のコンスタンティノポリス公会議で否定しました。それでも輪廻転生を信じるものを異端として虐殺し根絶やしにして今日に至ります。この会議を主催したローマ皇帝は、輪廻転生を否定することによって、地上の唯一の権威としてローマ皇帝に従わせることができると考えました。一度きりの人生とすることによって今生きているいのちを惜しむことになります。皇帝に逆らっていのちを失うことに恐怖を感じるようになります。
 輪廻転生を素直に信じていた江戸時代の武士は、いのちを惜しむことなく名誉のために死を選びました。また、生まれ変わってくることを信じているが故の潔さでした。

 インドにはイエス・キリストが来て修行したという記録があるということです。
 
 さて、無神論を信じダーウィンの進化論による偶然の積み重ねによって人類が誕生したとすれば別ですが、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が伝えるように神が人類を創造したことが真実であるならば、神は人類の歴史に責任があります。ならば、竹内文書にあるように、唯一絶対の創造神の直系として地上にスメラミコト(後世の天皇)を置かれたとしても不思議はないと考えます。むしろ責任ある創造神として当然のことではないかと思います。
 当然、人類の倫理観を規制する教えもまた、保持されていると考えます。

 竹内文書には、モーゼ、イエス、マホメット達は、富山にある赤池白龍満堂に籠もり、修行して、天照日大神の御神霊にお会いして神の教えを受けて、それぞれの国に帰り、宗教の教祖となったという記録が残されています。
 さらに、空海、日蓮、親鸞なども赤池白龍満堂に参籠して悟りを開いたとつたえられています。
 赤池白龍満堂は、山根キクによれば、天祖皇祖人祖の宮である「越中の皇祖皇大神宮の境内にある赤池白龍明神の御堂の別名である。越中の皇祖皇大神宮は、何処にあったかといえば、富山市の岩瀬の海岸に流れ出る神通川これに山田川が流れ込む処にある久郷村(昔は公卿村)という中州島にあったのを、後に島が流されてからは山田川の岸辺に造営したのである。ホド宮(陽)は川の傍の御皇城山に、メド宮(陰)は川岸に、そして赤池白龍明神はメド宮の傍にあった。ここに水の色が赤い五間四方ホドの赤池があり、この池に四斗樽の太さの白龍が生息していた。白龍満堂一丈二尺四方、四角四面の御堂である。」とあります。

 さて、竹内文書によれば、釈迦による仏教、モーゼやアブラハムによるユダヤ教、イエス・キリストによるキリスト教、マホメットによるイスラム教のルーツは一つであるということになります。

 その元一つの宗教をルーツとするイスラム教とキリスト教・ユダヤ教が、お互いに争いあい、殺し合い不倶戴天の敵となってしまったことは非常に残念なことです。

 その、教祖の日本留学により古神道の教えがそれぞれの宗教のルーツであることが分かれば、お互いが争うこうとの矛盾に気がつくものと思います。イスラム教とキリスト教・ユダヤ教の宗教戦争とでも言うべき対立も解消されるものと信じます。否、竹内文書の記録にこそ、世界平和に導く基本的な思想になるべきであると考えます。

竹内文書による宗教教祖の来日記録  
モーゼ 不合69代神足別豊耡天皇即位200年3月16日(西暦紀元前1425年)、ヨモツ国より、モーゼ・ロミュラス日本に来たり、12間日本に住む。この間に、モーゼは万国五色人の護るべき十戒法を作る 天皇詔してヨモツ国の守主となることを命ぜられる。ロミュラスはローマ建国伝説(紀元前743)にあるロムルスのこと。 帰国後、不合70代神心伝物部天皇即位75年9月8日、能登宝達宮にて583才にして神幽り、能登宝達山、ネボ谷に葬る 。   
釈迦 不合70代神心伝物部建天皇即位107年(紀元前1010年)10月カピラ国王子、釈迦来る。天皇、天越根主に命じ、釈迦の入門を許さる。
インド帰国後、52歳で再来日、日本で116歳の天寿を全うする。 
老子 不合73代(神倭初代)狭野尊天皇(神武天皇)即位124年(紀元前536年)4月23日老子日本に来って天皇の大前に参朝。2年2ヶ月日本に住まいおり、
即位126年9月23日、天越根能登神代川浜より、新羅国の釜山水門に帰り行く。 
孔子 神倭3代(皇統100代)安寧天皇18年(紀元前531年)、4月24日、21歳の時日本に来り、呉服に住う。
天皇即位23年3月4日、26歳の時、支那唐国へ帰り行く。 
孟子 神倭6代(皇統103代)孝安天皇41年(紀元前351年)3月孟子日本に来る。46年9月25日、唐国へ帰る 天字を直してゼイチクを作る 
キリスト 神倭10代(皇統107代)崇神天皇即位61年(紀元前36年)1月5日キリスト誕生、12月6日弟イスキリ誕生。
神倭11代(皇統108代)垂仁天皇即位10年(紀元前9年)18歳の時、能登の宝達水門に上陸 5年の修行のユダヤの王の位を授かり、いったんユダヤの帰る 日本で修行しなおして30歳の時にユダヤに帰って教えをひろめる。
垂仁天皇即位33年(西暦紀元5年)2月26日に、青森県八戸港松ヶ崎に上陸、39歳
キリスト十字架を逃れて日本に来る、チチの国、戸来に住む。
神倭12代(皇統109代)景行天皇即位11年12月25日、キリスト118才の天寿を全うして、戸来の地に一生を終わる 。  
モハメット    神倭31代(皇統127代)欽明天皇即位32年アラビア国メッカシリアに、モハメット生まる。
神倭34代(皇統131代)推古天皇即位2年、モハメット24才にて来朝す時の大臣、蘇我稲目。
神倭35代(皇統132代)舒明天皇即11年4月27日 御イトマゴイして、ヨモツアラビア国、メッカへ帰る。
神倭37代(皇統134代)孝コ天皇即位4年にモハメット没す。回教2代目アブ―ベルク嗣ぐ アブ―ベルは教祖の遺言に依り、天国天越根中日玉国皇祖皇太宮、別祖太神宮神主家、紀氏竹内大国臣へ使を出立すと云う日に没す。    
※出典;「世界の正史」山根キク著(世界平和社 昭和39年)/「不思議な記録第19巻」浅見宗平著(自由宗教一神教出版部 平成12年)/「キリストは日本で死んでいる」山根キク著(たま出版 平成6年)などによる/年代の齟齬がありますが、そのまま記しました。

参考図書

○「[超図解]竹内文書」高坂和導著(徳間書店 1995年)
 「第6章 世界の聖人は皆日本で学んだ
  竹内文書に見る聖人来日記録
  聖人たちの謎の空白期間を埋める竹内文書

  竹内文書の後半にあたる不合朝、神倭朝時代の記録には、世界中の聖人と謳われた人たちが多数登場する。その顔ぶれは絢爛豪華だ。モーゼ、釈迦、孔子、孟子、イエス、マホメット、伏羲、神農といった、いずれも歴史の転換期に活躍した聖人たちである。世界の聖人といわれるような人は、まるで申し合わせたように、その生涯のなかに空白期間は、どの聖人の場合でも本格的な活動を始める以前の時期にあたっていることから、修行期間であったことだけは明白なのであるが、どこで何をしていたかは、まったくの謎であった。このような、今まで謎とされていた空白期間を埋めることができたのが、竹内文書である。
  彼らは竹内文書によると、日本を訪れ、学び、本国へ帰るという留学の形をとっている。世界の中心であった日本に来て学ぶことは、当時最高の知識を手に入れることであったのだろう。そのため多くの聖人が、さまざまなチャンスを生かし、また、苦労を重ねて日本留学をおこなっている。
  不合朝五十八代・御中主幸玉天皇の御代、御中主幸玉天皇は即位して百一年めに、五色人のために御宮である神明皇祖皇太神宮別祖太神宮の神殿を塗り替え、遷宮を行っている。このときは、万国から五色人の王たちが、自分たち五色人の御宮の遷宮を祝い、それぞれお祝いの品を持って日本へ来ている。そのなかには、中国の伝説時代の皇帝・伏羲と神農の姿があった。
  竹内文書には、次のように書かれている。
  「天皇即位百一年イヤヨ月円五日(3月15日)、詔して天越根中日見日高見赤池上、神明皇祖皇太神宮別祖太神宮殿、前殿境内神の社を替え造り、大遷宮、御皇城大宮より遷宮、祭主天皇皇后、自身祈大祭礼す。万国の五色人王四十四名集まる。アヂチ唐、支那(シナ=中国)伏羲氏神農氏来り、ミツギ物捧奉礼拝す。伏羲神農氏居所、伏氏の水門といふ。居ること三十六年目、アジチイタナ国天津に帰る。所を天津と云ふ」
  つまり、中国の伏羲と神農は、皇祖皇太神宮別祖太神宮の遷宮を祝い参拝するという絶好のチャンスを生かし、三十六年間にわたって、あこがれの日本留学を果たしたのである。
  
  天皇の権威回復のために聖人たちは道を説いた

  聖人たちの日本留学が盛んに行われた時代は、日本の天皇が非常に微妙な立場に立たされていた時代でもあった。たび重なる天変地異で、日本の国力は衰え、天皇の権威も今までのように絶対的なものではなくなってきていたのである。
  伏羲・神農の日本留学があった直後の不合朝五十九代に、そうした状況がかんり進んでいたことをうかがわせる神勅の記録が残っている。
  「今より先の代、永遠代、必ず天下万国の五色王一人天皇なり、(中略)違っては、天皇代、アブナクナルゾと神勅ある。棟梁天下天皇一人、無極代億代迄守護するぞ」
  そして、この神勅を天皇自らが万国巡幸の際に五色人の王に伝えている。
  「天皇即位三百年ムツヒ月篭八日(1月28日)、詔して万国巡幸す。神勅を教えしむ。五色人王おそれて平伏す。」
  力をつけた五色人の王が天皇の真似をし、次第に世界の王であるかのような言動、ふるまいをするようになっていたことが、この記述からうかがわれる。天皇も、もはやその権威だけでは、五色人の王を掌握することができなくなっている。神の勅命であることをことさらに強調しているのはそのためであろう。
  天皇による世界統治が危機に陥ったとき、人のあるべき道を説き、治世をまもろうとする指導者たちが現れた。それが孔子、老子、キリスト、釈迦、マホメットといった世界の聖人たちなのである。日本で学び、天皇にじかに謁見した聖人たちは本国へ立ち戻り、天皇への報恩と世界とがひとつのまとまりとして調和することの大切さを説いた。
  しかし、それは各国の民王たちにとって、決して面白いことではなかった。一度は神勅の前にひれ伏したものの、権力欲の虜となってしまっていた王たちは、天皇に対する尊敬と感謝の心を再び取り戻すことができなかったのである。自分のテリトリー内で、自分より権威をもつものの存在を説く聖人の存在は、王たちにとっては目障りであり、憎悪の対象でしかなかった。いつの世も聖人たちが王に疎まれ、弾圧を受けることになったのは、こうした理由からであった。
  つまり、多くの聖人たちがそれぞれに人の道を説いているが、すべての源流はひとつ、日本で学んだことをもとに説かれていたのである。言語はその国によって違っただろうし、表現方法や戒律も国によって異なる。しかし根源を流れる真理は、いつの世もたったひとつである。この視点に立てば、世界の宗教紛争などというのは、本来ならありえないこととなる。
  長い歴史の間には、宗教上の問題が不幸な戦争のひきがねになったことがいく度もあった。しかし、竹内文書が示す事実を知れば、そうした問題は必ずや氷解するはずなのである。私が、世界のひとりでも多くの人に竹内文書を知っていただきたいと願う理由のひとつは、そこにあるのである。」(214頁、217頁、219頁〜220頁、222頁)
 
○ 「キリストは日本で死んでいる」山根キク著(たま出版 平成6年)

平成26年08月08日作成   第100話