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高校生のためのおもしろ歴史教室>余話の部屋

37.義経=ジンギスカン説

 林信二郎によると竹内文書を伝えた皇祖皇太神宮(富山県)に自筆の義経願文が遺されています。

「越中国婦負郡宮川郷、神明赤池上皇祖皇太神宮、神明御前自身に伊予守義顕臣武蔵坊弁慶、生国に望みなく、以て蝦夷唐国の王たらんことを望み寿福立身を祈り奉る。一、大黄金二十五枚 寄進
文治二年丙午十二月十六日祈書判 伊予守源義顕
家臣 武蔵坊弁慶」

文治二年十二月は1187年1月にあたります。義顕は義経の別名です。源頼朝に追われて源義経(1159年〜1189年)が、京都から平泉に落ち延びる通路として北国落ちの途中に立ち寄ったとすればつじつまがあいます。高野山金剛峯寺に遺された花押とおなじで義経直筆であることがわかると言います。

 「生国に望みなく、以て蝦夷唐国の王たらん」と願文にありますが、源義経は衣川で死んだのではなく、蝦夷(岩手・秋田・北海道)から樺太(サハリン島)を経て、大陸に渡り、モンゴル帝国の初代皇帝である成吉思汗(ジンギスカン)(1162年頃〜1227年)になったというのが、義経=ジンギスカン説です。

『−成吉思汗は源義経かー義経伝説の謎」佐々木勝三・大町北造・横山正二著(1991年 勁分社文社)には、文治4年(1188年)平泉を脱出してから蝦夷地(北海道)に渡る経路が詳しく実地調査がされています。昭和20年代には、東北地方及び北海道の各地に義経の足跡が残っていたことがうかがわれます。義経ゆかりの人々の子孫も多く取材されています。 「成吉思汗ハ源義経也」小谷部全一郎著(1924年)には、ウスリー河や満州地方を探索した結果、義経伝説をうらづける遺跡が多く残っていたことが記されています。
 
 前提が二つあります。まず、義経が1189年の衣川の戦いで死んでいないということです。そして、ジンギスカンつまりチンギス=ハンの前半生は伝説に包まれていてよくわからないということです。ジンギスカンが初めて歴史に登場するのが1193年頃であり同一人物であっても矛盾はありません。
 義経生存説を初めて唱えたのは、徳川光圀が編纂させた「大日本史」においてでした。

「世に伝う。義経、衣川の館に死せず、遁(のが」れて蝦夷に至ると。・・・己未(四月三十日)より辛丑(六月十三日)に至るまで相距(へだた)ること四十三日。天、時に暑熱の候なり。[六月十三日は今の暦では八月初めの猛暑の季節] 函して酒に浸したりといえども、いずくんぞ壊爛腐敗せざることを得ん。たれかよくその真偽を弁ぜんや。しからばすなわち、義経死すと偽りて遁れ去りしか」とあります。
 衣川の戦いで、藤原泰衡に攻め滅ぼされたとされるのが旧暦4月30日でした。この義経の首が、本人確認のために鎌倉に送られたの6月13日と「吾妻鏡」にあります。43日もかかって鎌倉に送られたことに疑問を呈しているのです。季節は真夏でした。身代わりの首が鎌倉に送られたのではないかということです。
 また新井白石の「読史余論」にも「義経手を束ねて死につくべき人にあらず、不審の事なり。今蝦夷の地[北海道のこと]に義経の家の跡あり、又夷人飲食に必ず祀る。それのいわゆるオキクルミと云うは即ち義経のことにて、義経後には奥へ行きしなど云い伝えし」とあります。

 アイヌ民話の中で、オキクルミという神は、小柄で頭のよい神です。また、大男で強力無双の従者サマイクルは、弁慶であるとされています。また、「ホンカン様」信仰もあり、これは義経の官職にちなむ「判官」様」の訛ではないかと考察しています。

 新井白石の説を信じた人物に鎖国時代に「日本」をあらわしたシーボルトがいます。シーボルトは明治になってから西周に、ジンギスカン=義経説を正史とするように働きかけました。ヨーロッパにも紹介しました。これを受けて小谷部全一郎が、現地調査を行った上で大正十三年(1924年)に「成吉思汗は義経也」をあらわしました。そこには、北海道沙流郡平取町のアイヌの老酋長ペンリ[ペンウク]から聞いた伝説を収録しています。「判官は後に樺太[サハリン島]に攻入りアイヌに仇する酋長を殺し、彼処よりクルムセの国に渡りたり云々。蓋(けだ)しクルムセ国とは古の粛慎(みしはせ)を称するなり。」
  
  平泉から北海道にかけて、義経関連の遺跡は60カ所あるということです。ジンギスカン=義経説にちなんで後に造られたものであると学者達は否定しています。しかし、義経北行説を否定することはできないと考えます。
 堺から瀬戸内海、北九州にかけて神功皇后関連の遺跡がたくさんあります。江戸時代の名所図絵(観光案内)に載せられていたり、地元の観光名所ともなっています。神功皇后は、応神天皇の母にあたり、仲哀天皇の急死(紀元200年)を受けて201年から269年までの間、摂政として政務を執り行ったと日本書紀に記されている方で、三韓征伐といって、朝鮮半島に攻め入り、朝鮮半島南部を日本の支配下に置いたと云われる伝説上の皇后です。この三韓征伐というのは、フィクションであるとされていますが、朝鮮半島南部が日本の影響下にあったことは、好太王碑文や朝鮮南部に日本独自とされる前方後円墳があることからも真実であると思います。この神功皇后は、竹内文書には、天皇として即位したと記されています。
 この神功皇后の遺跡も、私は実際の故事にもとづいて伝えられてきたと考えます。義経北行伝説も神功皇后三韓征伐伝説も、名所として造られたものもあるでしょうが、その遺跡の多さから否定できないと考えます。

 さて、ジンギスカン=義経説の傍証です。 
 1206年にクリルタイという族長会議で、テムジンがジンギス=カンとしてモンゴル族の皇帝となったときに、房付きの九本の白旗を掲げたと記録にあります。源義経は九郎義経といいました。源氏の旗は白旗ですので、この即位式の記録は、ジンギス=カンが義経であることの根拠であるというのです。
 テムジンは、日本語の「天神」がなまったもの。ジンギスカンの別名はクローということです。これは、源氏の九男坊である九郎そのままです。
 さらにジンギスカンは、モンゴルにも中国にもない長弓を使っていたと云うことですが、これも日本の弓の事ではないかと云われています。
 また、ジンギスカンの騎馬戦術は、義経の一ノ谷の合戦での鵯越えを彷彿させるといいます。
 食べ物や相撲、巻き狩りなどのモンゴル人の風習も鎌倉時代の日本の習慣によく似ているといいます。
 ジンギスカンの孫のオゴタイハンは、宋を征服して中国本土に「元」を建国しました。この「元」の国号は「源」氏に通じるというのです。

 1227年8月18日、ジンギスカンは西夏征服目前にして病死して、モンゴル高原の起輦谷へ葬られたとされていますが、今日に至るも墓の位置はわからないままになっています。墓が発掘されることになれば、真実があきらかになるものと思います。

参考図書

○「義経伝説の謎―成吉思汗は源義経か―」佐々木勝三・大町北造・横山正二著(KEIBUNSHA BOOKS 1991年 )
○「商工毎日新聞(第618号・第620号)」林信二郎著(商工毎日新聞社[シャディ営業本部内] 昭和60年5月5日・昭和60年10月10日)

平成26年07月17日作成  第098話