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 「いろは歌」は一般に、平安時代につくられたとされるが作者は不明である。現存する最古の「いろは歌」は、1079年の「金光明最勝王経音義」で万葉仮名で記されている。

 
以呂波耳本へ止 千利奴流乎 和加餘多連曽 津祢那良牟 有為能於久耶万 計不己衣天 阿佐伎喩女美之 恵比毛勢須

7字ずつに区切られ、7行で記されている。「ひらがら」に直すと、

 
いろはにほへと ちりむるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし えゑもせす

となる。
 本
ほ 
 へ
へ 
いろは歌は左から縦に読む
  久保有政によると、沓冠を読むと「いちよらやあゑとがなくてしす」という暗号が秘められているという。「ゐ」はワ行の「い」、「ゑ」はワ行の「え」である。

 「いちよらやあえ」の「やあえ」は、「ヤハウェ」であるという。
 「いちよらやあゑ」とは、「神ヤハウェの人」を意味するヘブル・アラム語「イーシ・エル・ヤハウェ」を示しているという。
 作者の意図はそれ以外にあるかもしれない。「いちよら」は一番のを示す「いっちょら」、「咎なくて死す」を「説かなくて死す」等である。どちらにしへも「ヤハウェ」を織り込んでいる。
 
 こうしたメッセージを歌に織り込むことは、平安時代の歌人はよく行っていたという。折り句による言葉遊びである。
「いろは歌」は、47文字が重複なく使われており、宗教的天才でなければ作れないということ。また、「いろは歌」は真言宗の僧の間で学問的用途に使われていたという事実があり、弘法大師空海がつくったという説がある。
一般に仏教の「涅槃経」の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」教えを歌った歌と言われている。

 「色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為(憂ゐ)の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」

 花が咲いてもすぐ散ってしまう。この世の中に変わらないものはない。有るものないものの奥にある人生の様々な困難を今日また越えたが、はかない夢を見たくないものだ。酔ってもいないのに。

 国文学者の宮嶋弘や岡田希雄は、「涅槃経」と関係のないといっているという。

 空海の留学した唐の都長安には、ネストリウス派キリスト教の伝来を示す、781年に立てられた大秦景教流行中国碑があった。当然ことながら空海はキリスト教の神の名も、教義も理解していたと思われる。そう思えば、沓冠に暗号を残した7字区切りの「いろは歌」を空海作というのも、興味深い符合であるといえる。

 「竹内文書」の実在を前提に、「竹内文書」の研究者であった酒井由夫博士の遺稿から神代文字及び「いろは歌」の由来を取り上げる。
 「人類の祖国日本の固有文字は、まず最初に神代において神代文字を考案された。すなわち、アヒル文字、アヒルクサホ文字、像形(ぞうかた)カナ文字の三種類である。アヒルクサホ文字は、天神第6代の国万造主大神の弟神である天日萬言文造主神と天神第7代の天照日大神(日球神)とによってつくられた。
 くにつかみ皇統第1代天日豊本葦牙気皇主天皇が天越根国に人の世を開き給うた時、これ等の神代文字をそのままそこへ移し植え給うたが、この際これら以外の文字も考案なされ、全体として十六種類の文字が出来た。
 十六種類の文字の中に、伊豫(イヨ)文字がある。天日豊本葦牙気皇主天皇の第五十五番目の皇女に天日向愛姫神がおられる。伊豫の国に天降られる天日向愛姫に父天皇から授けられた文字がイヨ文字であり、イヨ文字は、その子孫によって代々伝えられたものである。
 このイヨ文字は、他の神代文字のようにヒフミ順に配列されないで、イロハ順に書かれている。くにつかみ第二代の造化気萬男見光天皇は、五色人統治の必要上、天神人祖一神の存在する神国を中心とし、それより十六方にむかって神々を御派遣になった。
 その時、遙か西南の方向には命を受けてヨイロハ・アダムイブヒ赤人女祖神が天降られた。このヨイロハ姫神の叔母に当たられるのが、此処にいう天日向愛姫神である。

 祖国を離れ遠く西南(ヒイロ)の地に赴かれるので盛大な宴が開かれた。
 その席上で父君の天皇がヨイロハ姫神に、この歌を留別されたのである。
 同席した天日向愛姫神は深く感動なされて、その時以来この歌を書き留めて愛誦されたと云う。」

イロハ歌 解釈
イロハニホヘド   イロハ姫も匂うが如く美しく成長したが  
チリヌルヲ  今やチリジリに別れて此処から去り行く事となってしまった 
ワガヨタレゾ  しかしこれも我が人間世界では  
ツネナラム  誰もが逢わねばならぬ運命であろう  
ウヰノオクヤマ ケフコエテ   しかし今日こそおまえは有為変転の多くの山々を越えて使命を奉じて旅に立つが  
アサキユメ ミジ エヒモセズ  よもや再び天国日本を見ることも、親子が会うことも出来ないであろう   
[「竹内文書原典 解説集W 太古代日本の固有文字」酒井由夫著 (2010年 ヤマトランス)より一部要約] 

 ここでも不思議な符合がある。弘法大師は、伊豫国(愛媛県)の隣の讃岐国(香川県)の出身で、四国の山野を駆け巡り修験道の修行をおこなっている。竹内文書に関係有る神社等には、修験道を整備した奈良時代の役小角の祠と共に、必ずといっていいほど弘法大師の祠がある。役小角と空海は、太古よりの日本の歴史の秘密をつかんでいた可能性が強い。
 空海((774年〜835年)は、伊豫国で修行中に、天日向愛姫(愛媛)神伝来のイヨ文字の「いろは歌」の存在を知り、万葉仮名で紹介した。
 次いで、イヨ文字で書かれていた「いろは歌」を皇統1代天皇(スメラミコト)より使い続けられていたアヒルクサホ文字及び像形カナ文字の最新の改良形つまり「ひらがな」と「カタカナ」に直して神代文字の復活と普及を図ったのではないだろうか。
 
「 カタカナ」の母字とされる万葉かな
万末
「 ひらがな」の母字とされる万葉かな
无毛
 
 ここでも不思議な符合がある。弘法大師は、伊豫国(愛媛県)の隣の讃岐国(香川県)の出身で、四国の山野を駆け巡り修験道の修行をおこなっている。竹内文書に関係有る神社等には、修験道を整備した奈良時代の役小角の祠と共に、必ずといっていいほど弘法大師の祠がある。役小角と空海は、太古よりの日本の歴史の秘密をつかんでいた可能性が強い。
 空海((774年〜835年)は、伊豫国で修行中に、天日向愛姫(愛媛)神伝来のイヨ文字の「いろは歌」の存在を知り、万葉仮名で紹介した。
 次いで、イヨ文字で書かれていた「いろは歌」を皇統1代天皇(スメラミコト)より使い続けられていたアヒルクサホ文字及び像形カナ文字の最新の改良形つまり「ひらがな」と「カタカナ」に直して神代文字の復活と普及を図ったのではないだろうか。「ひらがな」は、900年頃 万葉仮名の草体をもとにつくられた。「カタカナ」は、800年頃、万葉仮名の省画や変体、一部をもとにつくられたとされている。しかし、本当の起源は、神代文字であるということが真実ではないだろうか。

参考図書

○「竹内文書原典 解説集W 太古代日本の固有文字・仏魔行・葺不合朝前期正統史」酒井由夫著 山本根菜編(2010年 ヤマトランス) 

「ひらがな文字は(アヒル)クサホ文字から変化したものであり、葺不合朝時代から盛んに使用された。その五十音を次に掲げる。(237頁〜238頁)
 クサホ文字からひなからへの変化の様子
 「新形仮名文字は、神武天皇即位五十年を記念する大祭の時定められた文字であり、ひらかなと共に現在の我が国で使用されている文字である。
  この文字は、葺不合朝時代に広く用いられていた古文字を更に簡略化したものであり、甚だ便利である。次に、その五十音図を掲げる。(省略=現在のカタカナの五十音表と葺不合朝時代の像形(ぞうかた)カナ文字の簡略形)」239頁

○「ふしぎな記録8巻 神代文字 神字」浅見宗平著(自由宗教一神会出版部 平成5年)

「日本の国には 神様がお作りになった象形文字(=酒井由夫の著作にある像形[ぞうかた]カナ文字)から カタカナ 天日霊文字から ひらがな と言う神代文字から出来た 日本の文字がありますが カタカナ も ひらかな も象形神字(カタカナ)であり 日霊神字(ひらかな)であって 神字でありますが 此の事を忘れて 油断している所へ 度胸の良い 頭の良い人たちが 外国から来て カタカナ は漢字の片方を取って作った文字であると言って 阿=ア 伊=イ 宇=ウ 江=エ 於=オ 加=カ 多=タ 賀=カ 奈=ナ 此の様に字を書いて 説明されたから さあ大変 すぐ信用してしまいました 」(93頁〜94頁)「ひらかな は 神代文字である 天日霊草文字(あひるくさもんじ=酒井由夫の著作にあるアヒルクサホ文字)より出来たので 日霊神字(ひらかな)であって 日本の字となりましたが 神字であります それを日霊神字(ひらかな)は 平仮名であった 平易な一時的な 仮の文字である と言う訳であります」(95頁)
  図版は一神宮所蔵の象形神字(カタカナ)の変化表 58頁〜59頁

○「竹内文書原典 解説集W 神通力・霊魂・葬祭法・東洋医学・初期の神大文字」酒井由夫著 山本根菜編(2012年 ヤマトランス)
○「日本とユダヤ 運命の遺伝子」久保有政著 (学研パブリッシング 2011年)
○「こんな教科書で学びたい 新しい日本の歴史」 伊藤 隆ほか14名著(育鵬社 平成23年)

平成23年10月10日作成   第074話