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高校生のためのおもしろ歴史教室>読書案内

「放射能汚染から命を守る最強の知恵」阿部一理・堀田忠弘著    

東日本大震災で福島第一原子力発電所が爆発し,大量に放射能がばらまかれました、さらにメルトダウンを起こし、大量の放射能を今も発生続けています。長崎・広島の原爆投下と比較にならないほどの今後の被害が予想されます。チェルノブイリでは五年後から癌患者が激増したとのことです。超緊急出版とあるのは、3.11後の5月21日に出版されたからです。今からでも遅くありません食生活を変えてみませんか。  
  詳しくは、「放射能汚染から命を守る最強の知恵」阿部一理・堀田忠弘著(2011年 コスモ21)です。)

 東日本大震災で福島第一原子力発電所が爆発し、放射能が東北地方を中心に世界中にばらまかれました。原子力発電所のメルトダウンが止まったという話は聞きません。広島や長崎の原発被害より深刻ではないかと思いますが、いまだに放射能を出し続ける大地からの避難もチェルノブイリ原発事故よりは限定的にしたり、未だつついていいる東北漁場での魚の汚染や、野菜の汚染などについては、風評被害ということで片付け、政府はなかったことにして食品汚染について規制を緩和し、知らないふりです。原子力発電所も2年間停止していたことにより、停電したということも聞きません。にもかかわらず、地球温暖化問題対策や、経済効率を盾に発電を再開を近ごろ始めつつあります。
 南海トラフ地震やテロが起きてからでは日本全体がさらに壊滅的な被害を受けることになります。現状でも、広島や長崎の原発被害より深刻ではないかと思いますが、熱しやすく冷めやすい善良な国民は安全神話に騙されて、あれほどの被害を受けながら「やむなし」という判断に傾いています。それでよいのでしょうか。
 原子力発電所が稼働するだけで近隣の癌患者が増えているというデータも広く有りながら、特定のサイトでしか視ることができません。チェルノブイリ原発事故でも事故後5年で甲状腺癌を始めとする癌患者が急増しました。放射能の被害というと、白血病を想起しますが、心筋梗塞による突然死、胃がんなどの内臓癌、動脈瘤破裂等あらゆる病気の原因になります。放射能が食物を通じて体内に滞留し放射能をだしつづけて、細胞を破壊し続けるのですから白血病に限ったものではないのです。
 どのように自衛すれば良いかというヒントとして被爆者の体験が役に立つと思います。
 この本は、プルトニウム型原爆が落ちた長崎の爆心地1.4キロの地点で被爆しながら奇跡的に生き残った70名の実例です。
 はじめにを見てみましょう
 「第二次世界大戦終戦の間際の昭和20年8月9日に、長崎で原爆が投下された時の話です。
 爆心地1.4キロにある病院の従業員と入院患者の計約70名は、何と被爆したにもかかわらず、放射能の被害に遭うことなく全員がいきのびたのです。
 その中心に秋月振一郎という医師の存在がありました。
 詳細は本文に譲りますが、生まれながらに虚弱だった秋月医師は、自然食で奇跡的な回復をします。
 そして、自らが医長を勤める、浦上病院でも患者や従業員に同じように自然食を勧めました。
 その結果、原爆が投下され、全員が被爆しましたが、死ぬことなく命をとどめ、その後に起こるであろう原爆症からも守られたといいます。
 この驚くべき事実は、自然食を広める運動に私を駆り立て、人生を変える大きな原因にもなりました。
 この秋月医師が推進した自然食というのは、玄米と味噌、そして塩をしっかり摂り、白砂糖をやめることでした。」(p9〜10)

 「(患者の治療のために)それから約1年にわたり、玄米、野菜、海藻の味噌汁の三つで食事療法を実行していた時、8月9日の11時に原爆が投下されたのです。浦上病院は坂の上の一番目立つところに立っている病院で、爆心地からは1.4キロしか離れていませんでした。
 その衝撃は、丘の上の目立つ場所だから直撃弾を食らったのだと思うほどすさまじかったそうです。
 何が起こったのか分からない、もうもうと上がる炎や土煙の中から、奇妙なことに見る人見る人が焼けただれていたのです。
 数日前に広島に新型爆弾が落ちたと聞いていたので、もしかしたらそれかもしれないと思いました。
 原子爆弾の知識はないため、地獄絵図のような状況の中でとにかく医者として治療をするけれど、次から次に坂を上がって来る人たちは皆、焼けただれてい手の施しようがなく、多くの命が無残にも失われていきました。
 そんな時に、食べ物を変えることで生き延びることができるかもしれないと感じていたのと同時に、思い出したのがレントゲン・カーターのことでした。
 レントゲン技師たちが放射線を浴びた時に怠くなる症状のことをいうのですが、当時、塩水をのむことでそれを防ぐことができていました。
 それで、先生は今までやってきていた「秋月式食事法」を徹底しようということで、野菜には味噌を必ずつけて食べること、しっかりと塩をつけて握った玄米のおにぎりを食べることに徹底したのです。
 幸運なことに、浦上病院は長崎の玄米の倉庫になっていました。また、ワカメや味噌もたくさんありました。
 それが被害を受けず無事だったのです。原爆投下の当日は昼食を摂れず、やっと夕方の6時になって、食事していないことを思い出して炊き出しを始め、皆で玄米のおにぎりを食べました。
 また、グラウンドはすべて野菜畑にしていたので、被爆していたけれども味噌をつkてて食べればいいと言い、必ず味噌をつけて食べたそうです。また、塩分はミネラルを豊富に含んでいるので、なんでも塩からくして食べました。
 そして、最も大切なのは絶対に砂糖を摂らないこと。それを徹底したのです。それでも、お菓子などを食べる人はいました。原爆の被害に遭ってもなんとか元気でいたのに、砂糖を食べたらみるみる元気がなくたんてしまうのです。
 それを秋月先生は見ていましたから、砂糖は悪魔の食物とまで思ったと言います。
 それまでに病院にいた職員と患者の約70名のほとんどは一年前から、その食事療法でした。
 「吐き気や下痢などに悩まされながらも生き延びることができたんだよ」と先生は話されました。浦上病院は爆心地のすぐそば、わずか1.4キロの処にあるのですから被者は白血病など、深刻な原爆症が発症しても不思議ではありません。」(p27〜30)

 当時は、遺伝子組み換えの大豆もなく味噌も天然醸造でしたし、海も畑も、田んぼも今よりは農薬汚染も遙かに少なかったと思います。更に塩もミネラル一杯の自然塩でした。そのことを留意して摂取するならば、今も通用する放射能被害から子供達をまもる方法ではないかと思います。 

平成27年12月26日作成