本文へスキップ

高校生のためのおもしろ歴史教室>読書案内

「知識民族としてのスメル族」高楠順次郎著    

  詳しくは「知識民族としてのスメル族」文学博士 高楠順次郎著(教典出版 昭和19年)。

仏典の研究から、スメル民族の故郷は、崑崙山脈のふもとの草原であるということ主張した考察である。

 参考となるところを、引用してみたいと思う。

「スメル=崑崙〔クル〕の大高原は、言ふまでもなくスメル〔Sumeru〕山下の北面に在る。スメル族の天宮アラカはその祖神の霊座である。この天宮を中心として、定住する国土は山辺の大高原〔※チベット高原のこと〕であるが、更に他の種族に連携して文化生活を営み、内外集散の基地であった処は、崑崙山西麓のコタン城である。」(p12)
「スメル山は、後代の須彌山世界説の中心となった為、単に空想の山と思はるるに至ったが、実はさうでなく、真実の最高峰の名であったことは周知の事実である。スメルは妙好と訳し南伝パーリ語ではシネル〔Smeru〕と云ひ、漢に音訳して須彌、蘇民、蘇迷盧とする雪山の最高峰である。このスメル山陰の一帯の高原がスメル族即クル〔崑崙〕族の根本住地である。(p12-p13)
「紀元前三千年頃から印度アパランダ〔西彊〕に文化を開き、近時の発掘に依り知られたスメル族の印度移住の史実を物語るものではあるまいか。何れにせよ、須彌四洲は皆史実を有する地方であったとすると、北方クル洲は如何なる国土であったか。同じくこれを南伝に聞くと「北クル洲はジャンプ〔印度〕の北に在る。広さ八千由旬あり、転輪王四周を統治す、北クル洲には家なし。一族同住す、米穀自ら稔り、香稲自ら熟す。人民は牛に乗り、人に乗り〔老人を負ふ]、女に乗る〔幼児を負ふ〕。王は象に乗り、馬に乗り、輿に乗り、輦に乗る。宮城は空中に在り、アラカと名く。王は天衣を着く。神々は時に集議す、諸王、夜叉〔※一般人〕、毎年一度、無熱悩池〔マナソワール〕に会合す、集会の後、大池に禊し身を浄めて去る。」また他の南伝に依ると、「クルの人は自己心なし〔amam・〕、私欲なし〔acchantik・〕、私産を有せず〔apariggah・〕、自然の道を破らず〔pakati-sil・〕、優雅の性あり〔Visesa-bhuno〕 、定命千年〔niyata-・yauk・〕であるとしてある。これが山の崑崙族の性格である。」

将に、シュメール人の理想の楽園、東方のディルムンではないでしょうか。

「斯く優秀性を有つ民族であるから、仏は毎年一度この国土に遊履せられたと伝えて居る。この伝説に相応しく、釈迦如来は全くスメル系クル族の裔である。仏の頭髪が螺状を為して捲き、胸にバビロンに特有なる卍字を印し、小亜細亜から印度、濠洲までに関係ありと覚しき転輪王救世主の思想を啓示せる点よりして、釈尊がスメル族の出爾であることは殆ど疑ひなしと謂うべきである。」(p14-p15)

 つぎに、仏本行集経より日氏スメル王系の系図をあげている。最後の秦氏関連の記述について。
 
「同じ陸の崑崙族でも月氏系に属するものであらう。恰も日本に移住した甘粛省秦地の秦氏が「弓月君百二十県の人を率いて入朝す」と云ふのであるから、これも月系山の崑崙族の一部なるべしと考えらるる。」(p19)

 「巨丹将来は蘇民将来の護符に伴へる伝説に見ゆる名である。護符のことは備後風土記にありしを釈日本紀に引用し今に存して居る。要領を示せば、或る旅行者(牛頭天王)旅に労れ、巨丹将来(コタン王)の家に到り宿を請ふ、許さず。依て蘇民将来(スメル王)の家に到る。歓待供給宜しきを得、そのサガラ(印度流域地名)に向かって去らんとするに臨み、「蘇民将来の子孫は永遠に護る」と云ひ去る。依て地方民、護符を作り、之に「蘇民将来之子孫也」と書す。信州上田国分寺に於いては木製護符を出す、木を造るもの、字を書くもの、その家定まれりと云ふ。佐渡、神戸(天王)、福山、山口、徳島等皆紙製護符を出す。伊勢山田にては祭日には「蘇民将来之子孫宿処也」と家々の門に記すと伝ふ。蘇民はスメルで巨丹はコタンなることは言ふまでもない。これは巨丹の桑蚕業を伝えた弓月君以来秦地の秦氏、西紀二百八十三年(応神帝十四年)以来、長域路を経て百済新羅を経て入朝した。欽明帝元年(西紀五百四十年)には秦氏七千五百五十三戸を日本に分籍せらる。一戸十五人であるから十萬以上の秦氏があった。分籍の主たる地方は山城盆地(太秦は總本家の居処)、西陣は織場で、江州百済寺の下に在りし秦氏は売場の主である。関東では大秦野、八王子、飯能、桐生、秩父、足利、福島、信州高遠(全部秦氏)などであった。秦氏の持来したものと思はるるは、蘇民将来の護符、(一)四軍団を遊戯とした将碁(印度のチャトランギー四軍戯をコタンで作り替へ、玉を以て大将〔将来〕とし金銀を配したものである。」(p83-p84)

 蘇民将来之子孫也の護符は秦氏伝来のもの。秦氏の居住地に伝わっている。巨丹将来と蘇民将来は、コタンの王とスメルの王の意味とある。

「スメル族崑崙族に共通なるは水田耕作と桑蚕紡織行とであるからこれに因む牛は必然の付属物である。……コタンは原語『牛の里』であるとする想定は、当否は別として、その霊地は大石窟ある牛頭山であることは周知の事実である。その分霊場たる牛頭山は支那にもあるが、朝鮮の曽尸茂梨(ソシモリ)(牛頭里)もそれである。日本に祭らるる牛頭天王(祇園の鎮守)もその塁である。その起原も矢張り秦氏の大移住に負ふ所が多いのであらう。
 秦氏の總本家は京都郊外の太秦(うずまさ)に在る。これは秦河勝の邸(今の広隆寺)の在る処である。うずましくまさしき正系の秦と云ふことに相違ない。日本紀の註のやうに、織布が堆(うづ)だかく積んであるから名けたと云ふのは俗説語原に外ならぬ。これを後の唐代の太秦(ローマ)に結付けんとする説は時代錯誤である。太秦の広隆寺にも牛の祭が行はれ、時に蚕の神を祀られたことが知られてゐる。牛頭天王も祇園としては王舎城の法道和尚の輸入であるが、牛頭天王としては已に早く秦氏に依って移入されて居たに相違ない。」
(p85)

 牛頭天王も秦氏によって移入されたとある。

 昭和19年4円25銭の本を、2006年6290円で北海道の古本屋より購入とある。15年ぶりに活用しました。

 この本の成果を活用したものとして
 「十六菊花紋の謎」岩田 明著(1990年 潮文社)があります。こちらの方が読みやすいし、入手しやすいと思います。

 前2000年頃、メソポタミアのウル第三王朝滅亡後、葦の船で日本に来たという説に関しては
 「消えたシュメール人の謎」岩田 明著(1993年 徳間書店)
 日本に最古のシュメール古拙文字があるという説に関しては
 「超古代日本語が地球共通語だった!」吉田信啓著(1991年 徳間書店)
 「超古代、最古・最高・最先端文明は縄文日本だった!」吉田信啓著(2013年 ヒカルランド)
が参考になる。。
 なお、吉田信啓(1936−2016)は、ペトログラフ(ペトログリフ)研究の第一人者であり、日本ペトログラフ協会の初代会長。

令和3年4月18日作成